archives of BI@K

CSS: default alternative
(要cookie)

toppage memoranda

(ここはbewaad institute@kasumigasekiの過去ログ倉庫です。コメント等は仕様上受付けを停止しておりませんが、こちらではご遠慮いただければ幸いです。何かございましたら、現行サイトにお願いいたします。)

2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2007|01|02|

2006-10-17

[law][government][economy][book]稲葉振一郎、立岩真也「所有と国家のゆくえ」

既に(少なくともwebmasterの巡回先では)多くの人が取り上げていらっしゃいますが(全体を俯瞰するには、svnseedsさんのエントリをご覧いただくのがお薦めです)、そのほとんどは経済の話と障碍者の話に重きが置かれていますので、この段階で取り上げる以上、そこから零れ落ちている論点を取り上げたいと思います。つまりは所有の、それも法的な理解についてです。

といっても、実はwebmasterが書こうとすることの本質は、svnseedsさんが読了前の時点で前駆的に取り上げた別のエントリにおける山形浩生さんの次のコメントに尽きています。

山形

結局誰かがあるものについて所有権を持っているかどうか、という問題は原理的に程度問題でしかない、ということになる。

……あたりまえじゃないですか。権利なんてお約束でしかないんだから。ぼくが目の前のポテチをくっちまったら、権利がどう騒ごうとそれは二度と戻ってこなくて、所有権なんてのはその補償をするのしないのという議論を、いちいち殴り合いせずに解決するために社会の人々が社会の中で決めたルールでしかない。そしてその「所有権」だって、フリーホールドから地役権から利用権からとりあえず手元にあるというだけの状態から、いくらでもレベルはある。それを無視して、突然いきなり絶対的な「所有権」なんてものが程度もなにもなく、シロかクロかで何やらドーンと実体的に存在するかのごとき議論は、顧みる価値のない空論にしか思えない。もし立石的所有論(ママ)が、所有権に程度問題を認めないようなしろものであるなら(稲葉大人の書き方はそう読めます)、それは権利バカの妄想以上のものではありえないように思うのですが。』

「所有について考えることの面白さについて」(@svnseeds’ ghoti!9/2付)における山形浩生さんのコメント

立岩先生の議論を読んでいないと公言されている山形さんですが、的確な把握であると思います。そうであることが端的に表れている部分を本書から抜き出せば次のとおりです。

立岩 それから所有の不可避性みたいな話に関しては、一つだけ付け加えておくとすれば、これも書いたことだけれども、近代における所有権は、単に財が個々人に配分されるというだけでなく、いくつかの特徴をもっています。総じて強い権利であり排他的な権利です。

(略)それとの比較で言うと、そういう排他的な、そして独占的な権利を個々人に付与している社会はたぶんそうはないはずなんです。

(略)

ただその上で、このことをどうとるかですよね。実際には、「即自的」な共同性というよりは、かなり自覚的で複雑で繊細な仕組みがあったりする。(略)

比べてわれわれの社会の所有権は単純なんです。完全に分割してしまうんですから。(略)それから共有ということに関しても、自然環境のことで取り上げられたりしますけど、入会地ってあるでしょ。成文化されていない決まりも含め、たとえば使っていいけど処分しちゃいけないとかね、どのぐらい使っていいとか、微妙な決まりがあったりする。(略)ぼくはちょっとそういうタイプの人間ではなくて、遠くへ行ったり昔のことを知ったりっていうことはあんまりやってこなかったし、これからもたぶんしない人間だと思うんで、あんまりたいしたことは言えないんですが、補足として付け加えておきます。

pp45-47

「遠くへ行ったり昔のことを知ったり」もされた方がいいのではないかと思うのですが、最低限現状ぐらいは踏まえた議論をしましょうよ、と。上記引用に続く部分で稲葉先生が土地や金融においては所有といってもあれこれ複雑ですよ、ということはご指摘なのですが、そういう部分において例外的に複雑なのではなく、所有権(と所有という言葉の使い分けは若干気になりますが、含意の有無は確認できないので、意味の違いはないとみなして議論を続けます)そのものの本質にかかわる部分で「単純なんです」と言い切れるような代物ではありません。

例えば、「使っていいけど処分しちゃいけない」のは、抵当に入れられた不動産がそれに該当します。不動産は複雑だと稲葉先生はしているわけですが、動産ならば登記できないので担保提供するなら質入れ、つまりは所有していても使うことすらできない状態になってしまったりするわけで、立岩先生が想定されているであろう「単純」なものではありません。所有権とは、それが有する各種の効果から帰納的に画されたものであって、それぞれの効果は個別に適用が判断されるもの。所有権は葵の御紋ではないのです。

#例外的に登記(ないしそれに類似する行為)ができる動産もありますが、捨象します。

登記を言うなら、登記とは第三者対抗要件を具備するために行うものですが、第三者対抗要件とは所有権の移動などを文字通り対抗する=認めさせるための条件です。AさんがBさんに不動産を売却した後、その登記がなされる前にCさんにも売却してしまった場合、Cさんが登記をしてしまえば、Bさんが所有するこの不動産はその旨の登記がなく、その所有権をCさんに対抗=認めさせることができないので、Cさんのものになってしまうわけです。

動産になってしまうと、先に触れたように登記ができないので、第三者対抗要件は引渡しとなりますが、構造は同じことです。所有権が絶対だというならば、なぜAさんはCさんにBさんの所有物を売ってしまうことができ、BさんはCさんから所有者は自分だと言って取り戻すことができないのでしょう?

#この場合、Bさんは損害賠償を請求することはできます。為念。

まだこれらの場合においては、Cさんは代金を支払ったという汲むべき事情はあります。では、取得時効はどうでしょうか。取得時効とは読んで字の如く、自分のものでなくても一定期間自分のものであるように見える状態を継続したならば、嘘から出た真で本当に自分のものにしてしまえる、ということになります。本来XさんのものなのにYさんがずっと我が物顔で使っていたらYさんのものになっちゃうなんて、Xさんの所有権は絶対でも何でもありません。

こうした諸制度の存在理由を論じた研究を積み上げればどこまで高くなるかは知れたものではないのですが、基本は取引の安定確保といい、長期間存続した事実関係の尊重といい、つまりはその方が世間がうまく回るから、ということが基本です。所有権といえども、いろいろ想定される対人関係かくあるべし、との判断が先にあり、その反射的に認められることとなった(さらにいえば権利と名付けられた)ものに過ぎないと考えられるわけです。

この点についてスタンスの違いを明確にするなら、次の部分を引くのが格好でしょう。

稲葉 (略)実はぼく自身のつもりとしては、この『「資本」論』という本において大事なのは前半で──それは自分にとってであって(笑)、他人がどう読むかは勝手なんですが──後半は、ときおり上すべりなアジテーションに走っててまずいなという危機感があるんです。

なぜ前半が自分にとって重要かというと、まずこれは第一回の対談のときに強調したことですが、所有と市場はイコールではないし、区別して考えるべきであって、なおかつロジカルに見て所有の方が市場より前にある、所有が市場の前提である。「市場なき所有」というのは十分に考えられる、だけど「所有なき市場」というのは、かなりトリッキーで、ふつうはあまりそういうことを言っても意味がない、ということを考えておりまして、そこの区別をつけたいということでごちゃごちゃやってるのが前半です。

p68

立岩先生のご主張を論ずるに稲葉先生の著書の自評を引くのもなんですが、この見解は共有されているようですので。で、webmasterは所有が市場の前提であるというのは違うのではないかと考えています。市場というものを近現代の資本主義的経済システム下におけるそれと狭く定義するならばそういうことかもしれませんけれども、既述のようにあくまで対人関係が先にありきと捉え、各人が何らかのつながりを有するモノを巡ってどのような関係性を構築するかによって権利が定まるとする立場から、モノを媒介に複数の者が交わる場を市場と観念するなら、市場があってはじめて所有が定まるとすることの方がロジカルなわけです。

さらに言うなら、先に立岩先生が近代的所有権との対比で入会権について触れているわけですが、それらが「所有権」「入会権」と名付けられ分かたれる前においては、渾然一体となったヒトとモノとの多様な関係性の表象の違いでしかなかったと考えられます。この辺り、ちょうど今読んでいる白田秀彰「インターネットの法と慣習」のp105で紹介される加藤雅信「「所有権」の誕生」を読んだ上で本来は物申すべきだとは思うのですが、とまれ、では、立岩さんのオリジナリティはどこかと言いますと、議論が所有する能動的な主体から始められるのではない、というところが第一のポイントです(p23)という割には、そこで対照的な所有論として掲げられているロックやノージックの議論の土俵に(メタ的には)乗ってしまい、まず所有ありき、になってしまっているのではないでしょうか。

乱暴な連想であることを承知で申し上げるなら、こうした姿勢は次のような話を想起させます。

アーラヤ識は刻々と更新され変化する。これは、バラモン思想において説かれるアートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤って執着する。この誤りもこころのはたらきである。これは、通常のこころの対象ではなく、アーラヤ識を対象とする。また、無我説に反するこころのはたらきである。そこで、この自我意識は「末那識」(まなしき)と名づけられ、独立のものとみなされた。

「9. 唯識派」(@インド思想史概説)

ここで言うアーラヤ識が「市場」におけるヒト・モノ関係で、「自我」が所有だと。この誤りをもたらす「こころ」もまた次のようにあり、立岩先生の苦悩はこの意味では悟りを目指す苦悶でもあるような。

つまり、あなたには権利がある、それは私らが承認することによって初めて発効する、しかし、そういうわれわれの恣意・価値とは別個にその人に権利があると言いたい。次に、そう思いたい、考えたい私たちの気持ちというか価値というものは事実として──その根源がどこにあるかはわかりませんが──あるって言えるんじゃないか、ということを書いたり考えたりしているっていうところです。

p194

[economy]あの人とwebmasterの見解が一致(笑)

#これまでの関連エントリについては、グレーゾーン金利撤廃(出資法上限金利引下げ)問題indexをご覧ください。

「あの人」とは福井秀夫先生ですが、福井先生のご主張に対してwebmasterは折に触れ異論を唱えてまいりました。この宿命のライヴァル(笑。先方には存在すら認知されていないでしょうけれど)の間に見解の一致が見られるとは!

◇引き下げは俗論迎合 円滑な融資を妨げる−−政策研究大学院大教授・福井秀夫氏

多重債務者の救済が緊急の課題であることに異論はない。しかし、それを上限金利の引き下げで解決しようとするのは効果が乏しく副作用のみ大きい。上限金利のない英国に比べ、上限のある仏独の方がかえって多重債務被害は深刻だ。少なくとも高金利が多重債務者をもたらすという相関関係は見当たらず、グレーゾーン金利(年20〜29・2%)の撤廃は問題解決にならない。むしろ円滑に融資を受け、返せている健全な借り手をむち打つものだ。

消費者金融に限らず、金融機関は一定の確率で貸し倒れが起きるリスクを含めて金利を決める。リスクはコストであり、その分散は保険同様重要だ。強制的に引き下げれば、業者は返済リスクの高い顧客を排除せざるを得ないから「信用収縮」が発生する。

金利規制の影響を試算したところ、平均貸出金利が年18%になれば、消費者金融の利用者950万人のうち59%が貸し渋りにあい、36%が貸しはがしの対象になる。(略)「低所得者は金を借りなければいい」という声もあるが、それを一律に法で強制するのは、疾病リスクの高い患者に健康保険加入を認めないようなものだ。

多重債務を抱え、債務整理に追い込まれる利用者は全体の10%程度。金利下げは、その救済にすらならず、大多数の健全な借り手と国民経済に打撃を与えかねない。はじき出された利用者は、5兆〜8兆円が必要とも言われるセーフティーネットの対象になる。(略)

(略)明確な根拠を示さず、「金利を下げる」という聞こえのいい政策を訴えるのは俗論への迎合だ。禍根を残さないためにも、臨時国会ではデータに基づく、冷静な議論を期待したい。【構成・赤間清広】

毎日「闘論:グレーゾーン金利撤廃 宇都宮健児氏/福井秀夫氏

これまで福井先生は本件についてあまり積極的にはご発言はされてこなかったようですが、これを機に様々な場でご主張いただければ(とりわけ、試算の詳細など)、と思います。さらに申し上げるなら、せっかく盟友とも言っていい八代先生が経済財政諮問会議の民間議員にご就任なのですから、諮問会議でも同様の議論がなされるよう、働きかけられたりしてはいかがでしょうか。

[WWW]少佐の予算要求演説の保存に手を挙げてみる。

pogemutaさんの跡地にて次のようなエントリが。

>『少佐の予算要求演説をどこかに残して!』(出入りの有識者 様)

ここはいずれ消滅しますが、どこかひきとって下さる公務員系ブログがあればそこに。

どなたかいらっしゃいますか?

「色々回答(随時加筆)」(@なにかがあったところ2100/10/15付)

既にqh-nuさんが立候補されていますので、先着順1サイト限定ということでしたら速やかに辞退させていただきますが、複数先に許諾いただけるのであればよろしくお願いします。グーグルキャッシュからも消えているようですので、ご回答はここのコメント欄にお寄せいただかなくとも、webmaster宛にテキスト込みでメイルいただければそれで結構でございます>pogemuta様。

[comic]現在官僚系もふ・第69話

ついにもっともらしい(と作中ではされている)異動の理由を考えることも放棄しちゃいましたねぇ。

本日のツッコミ(全13件) [ツッコミを入れる]
e-takeuchi (2006-10-17 08:55)

私も、上限金利規制の制限には反対です。過酷な取り立てが、よく問題にされますが、なぜそんな行為をするかといえば、従来のグレーゾーン金利でも、信用リスクは十分にカバーできないからです。金融業は、回収してなんぼの世界ですから、金利を制限すれば、とれる人からとってやろうという行為は、ますます苛烈仁なるのではないでしょうか。また、これに拍車をかけているのが、破産者に対する安易な免責です。本来、浪費やギャンブルが原因で破産にいたった場合は、免責されないはずですが、実際には免責されちゃいます。これでは貸し手はたまりません。それで破産される前に、苛烈な取り立てを行うわけです。金利の制限などよりも、アメリカのクレジットビューローのようなものを日本でもつくり、債務者の債務額を正確にはあくできるようにすべきです。今朝の朝日によると、ホワイト情報の交換も貸し手に義務づけようとしているようですが、なかなかうまくいかないようです。システム投資に金がかかりますし、天下の悪法である個人情報保護法がありますし(そういえば、フランスは日本以上に個人上に管理に厳しいそうで、そういう国で多重債務者問題が深刻なのは何か因果関係があるような気もします)。

niko (2006-10-17 10:22)

高利貸しのグラミン銀行の返済率を見ますと日本のサラ金の貸し方が悪いだけで信用リスク云々はお門違いに思えてなりませんよと素人の感想。

アルベルト (2006-10-17 11:31)

>nikoさん
昨日・一昨日のエントリとも関係しますが、グラミンの高返済率は「グラミンしか貸し手がいない」ことが大きく影響していると考えられます。競争が激しい日本のサラ金とは事情が異なると思います。日本のサラ金も一社だけだったらもっと返済率が上がると思いますよ。

おおや (2006-10-17 19:41)

そもそも「これはおれのものだぞ」という所有意識と、所有権というのは異なったものであって、前者は犬猫にもあるように思われるのに対し、後者は共和制ローマ後期のdominiumという明確な起源を持っているわけです。で、前者から一定の社会秩序が発達していくだろうことは確かで、その中にはおそらく市場も含まれますが、しかしそこから必ず後者が生まれるわけではない。
もともと所有権は、物理的な背景を持つ占有possessioとは異なった抽象的な概念であって、事実としてそれを誰が占有しているか、どの程度の処分をなし得るかという問題と所有権の所在は無関係である。カントは権利の本質について、意思的結合関係がすべての他者によって承認されていることだと考えましたが、この結合関係が人格とモノのあいだに作られるので一方的なのが所有権を含む「物権」であり、絶対的排他的な支配関係だというのも相手方の意思を想定しなくてよいという点にポイントがあるわけです。権利そのものが他者の承認にかかっており、ときには人格同士の結合関係である債権の対象ともなる以上、それらを無視して「なにをしてもいい」という意味ではまったくない。そもそも権利には全体として「権利の濫用は、これを許さない。」(民法1条3項)というシバリ、他者の承認を裏切ってはならないという制約がかかっているわけです。
ちなみにこういう権利観とそれに由来する物権・債権の峻別というのはカント→サヴィニーに端を発するわけで、その意味で大陸法系、なかでもドイツ系固有という色合いの強いものです。もちろん日本法はそこに属しますが、もともとローマ法の影響が薄い英米法系では話がまったく違ってくる。山形先生の「「所有権」だって、フリーホールドから地役権から利用権からとりあえず手元にあるというだけの状態から、いくらでもレベルはある」というのも「所有権」dominium / Eigentumをめぐる話としては乱暴に過ぎるわけですが、所有意識と所有権を明確に区別しない議論という出発点にそもそもの問題があったと、私なぞは思うわけです。
なお管見の限りですが加藤『「所有権」の誕生』は上記の枠組みで言うと所有意識から所有を尊重する社会秩序が形成されるまでの話であって、所有権ないし実体法上の「権利」(この概念は実体法・訴訟法の峻別を前提としますが、それが訴権主義のローマ法にも令状主義の英米法にも存在しなかったことには注意する必要があります)という特殊な概念が生まれてくる段階は扱っていないように思われます。ご関心のある向きには筏津安恕『司法理論のパラダイム転換と契約理論の再編』(昭和堂2001)をお勧めしたいところ。

おおや (2006-10-17 19:50)

……ちょっと長かったですね。すいません、自分のところで書けばよかった。

bewaad (2006-10-18 04:14)

>e-takeuchiさん
社会的には到底受け入れられないでしょうから、あくまで頭の体操ですが、ホワイト情報の共有の代替策としては、借り手が借りる際に自己の既存債務や収入等について誓約書を書き、制約違反があった場合には損害賠償を認める(SOX法からアイデアを借用)なんて制度を設けると、審査コストの低減・貸倒損失の縮小につながり、信用が拡大するかもしれませんね。

この場合、自己破産の際には当該損害賠償請求権は免責対象外だとしておかないと、実効性に欠けることになってしまいますが。

bewaad (2006-10-18 04:21)

>nikoさん
その高い返済率は何によって確保されているのか、ということでしょう。グラミン銀行の連帯責任は、単に債務を保全するというだけでなく、債務者がデフォルトした場合には地域社会からもつまはじきにされる、というプレッシャーをかけて、デフォルトをしないようインセンティヴを与えているわけです。

日本のサラ金の借り手であっても、職場や隣人にわざと知れるような取立てをすれば返済態度が改まったりするわけですが、それをもっと強固に、恒常的にやっているようなものでしょう。

bewaad (2006-10-18 04:24)

>アルベルトさん
ご指摘のロジックは、繰り返しゲームが成立する、というように理解しているのですが、問題ないでしょうか?

bewaad (2006-10-18 04:27)

>大屋先生
コメント欄にとどめておくのがもったいないと思い、勝手ながら本日(10/18)のエントリに転載させていただきました。重量級のコメントありがとうございました。

アルベルト (2006-10-18 22:32)

>bewaadさん
おっしゃる通りです。協力解が成立するかどうかは借り手が「裏切っ」た場合のペナルティの大きさにかかっています。
ただ、このような単純なモデルでも、例えばグラミンの行動原理をどう解釈するか(「利潤」最大化、サステイナブルである最低金利を選択、「回収率」の最大化、etc)等、色々と論点はあると思います。

bewaad (2006-10-19 04:40)

>アルベルトさん
とすると、例えばサラ金が競争状態にあるとして、取引履歴の充実による与信枠拡大なんかは、顧客を囲い込んで乗り換えコストを高めているので、同様の効果がありますよね?

とすれば、独占の帰結というより、先行者利益&収穫逓増性という考えもあり得るのかな、という気もします。もちろん創業当初は独占状態だったのでしょうけれど、後発の競合相手が出てきても、すでに囲い込みが進んでいるのでうまく入っていけない、というような。

アルベルト (2006-10-19 11:14)

確かにそうですね。サラ金にはご指摘の面が間違いなくありますし、グラミンでも返済実績を積むとある程度は与信枠が拡大します。しかし、グラミンの場合は基本的には少額のままなんですよね。なので、「ほとんど信用へのアクセスがない人の状況を改善するのには効果があるが、『貧困から脱出』させるほどのインパクトはない」という批判も存在するほどです。なので、実証研究を見ないとわかりませんが、個人的には与信枠拡大による囲い込み効果はそんなにないかな、とも思います。
もっとも、借りる側の連帯責任の有効性だけでなく、回収する側も地域にネットワークがないと効率的に回収できませんから、先行者利益はかなりあるでしょう。

bewaad (2006-10-20 02:41)

>アルベルトさん
ノーベル賞受賞を受けて、経済セミナーあたりで特集をやってくれると、そのあたりの研究についてもわかりやすくまとめてくれるのかな、という気はします。通常は経済学賞特集だけですが、今回は受賞者が受賞者だけに平和賞特集もありかな、というかあってほしいな・・・。


トップ «前の日記(2006-10-16) 最新 次の日記(2006-10-18)» 編集