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writings concerning kasumigaseki issues and others: 書評

2004年

二歩目はこれからどこへ踏み出すべきか−「会社はこれからどうなるのか」(岩井克人著)

第二回小林秀雄賞を受賞し、週刊ダイヤモンドの2003年経済書ランキング1位を獲得するなど、昨年の経済書界で「経済学者たちの闘い」と話題を二分したのが本書。 さすがに洛陽の紙価を高めただけあって、昨今の会社を巡る様々な話題について豊富な周辺情報を平易に紹介し、なんとなく物事がよくわかったような気にさせる点、読んでみれば読んだ甲斐があったと多くの人がうなずくことであろう。

・・・よくわかったような気にさせる?

そう、本書の最大の特徴は、今まであまり見られなかった切り口で「会社」から連想される論点をまとめ、かつ、わかりやすく説明しているところにあり、それが長所であり短所でもある。 つまり、本書を読んで、そこでなにか引っかかりを覚えて思考を発展させることができる人にとっては良書であるが、ふむふむなるほどと納得してしまうような人にとってはそれほどお薦めできるものではない。

何も専門書を読めということではない。 啓蒙書であっても、本書で取り上げられたような諸論点にもっときちんと取り組んでいるものは多いし、ある意味そうした世界へ卒業していくことが、本書の読者としてあるべき姿ではなかろうか。 以下、では本書の先にどのような世界が待ち受けているのかを覗いてみることとしたい。

冒頭取り上げられるグローバル化やIT革命、金融革命については、すでに「エコノミスト・ミシュラン」でもその中身のなさを指摘されているが、特にIT革命についての過大評価については眉に唾すべきである。 ネットビジネスが俗に「クリック&モルタル」と言われるように、結局のところネット化できない部分での勝負が重要であることを見逃すべきではない。 (以下は完全に脱線であるが、以上の理由から「モルタル」のいらないビジネスモデルを考えたリキッドオーディオをwebmasterはかつて高く評価していたのだが、結局この分野で成功したiPodは「モルタル」あってこそ成功したと言える。 ナップスターからwinnyに至るファイル交換ソフトの興隆は、「モルタル」を中抜きするビジネスの潜在的可能性を示すものだとは思うが。)

この点を深めていくには、IT革命の経済への影響を論ずるときの定番と言えるシャピロ&ヴァリアン「ネットワーク経済の法則」ははずせないし、ネットの発達などによるコミュニケーションコストの低下が、結局は他のメディアでは代替できないフェイストゥーフェイス・コミュニケーションの相対的価値を高めているとの指摘をしている岩田・八田「日本再生に『痛み』はいらない」を読んでみてもおもしろいだろう。

次に法人名目説と法人実在説についての議論だが、そもそも人がつるんでなにがしかの行動を行うという実態が先にあり、それをコントロールするために会社法が定められ(、さらにそれを支える理論として法人○○説が唱えられ)ているのだから、会社にそれぞれの要素があるのは当たり前。 演繹的にそもそも法人とは○○であって、と論じてみてもどこかに矛盾を来すのは必然である。

さらに言えば、それすらあくまで「会社法」すなわち商法の会社関連規定に関する議論にとどまっているのだが、会社に関する制度はそれだけではない(ちなみに、商法の会社関連規定は近年では年に複数回の改正が加えられることも珍しくないほど頻繁に見直されており、ますます全体を俯瞰的に説明し得る枠組みの存在不可能性が高まっていると言える)。 税金については法人税法、労働者を雇用する立場については労働三法(労働基本法、労働組合法、労働関係調整法)等、何らかの被監督業種であれば○○業法、・・・等々数え切れない法律が会社についてそれぞれの趣旨・目的に沿って定められ、どの制度から会社を眺めるかによって会社の性質はまるで異なったものに見えるのが実態である。

こうしたものの見方をうまく説明した会社法に関する本をwebmasterは寡聞にして知らないので、ここはうんとラディカルに「ミリンダ王の問い」を推薦しておこう(ネット上でもエッセンスは味わえる)。 法人だけじゃなくって自然人(法学においては、ヒトを法人と対比してこう呼ぶ)だってそう簡単には整理できないってことで。

(なお、アマゾンの書評でも商法第254条の解釈(p83)の誤りが指摘されているが、そのほかにも本書が対象とするような大企業には商法特例法(正式には「株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律」)が適用されるため、監査役に対する批判(p102)は当たらない(商法特例法が適用される場合には監査法人監査を受けることとなる)など、法律の具体的な規定に関する説明は鵜呑みにしない方がよい。)

その先にある会社のヒト・モノ説の議論も、ヒトでもなければモノでもないものをいずれかに帰着させようとするからこそ無理が生じているわけで、比喩としての議論以上の意味はないと受け止めるべき(株式持合いが会社がヒトとなる典型といっても、株式を持ち合わなければヒト足り得ないのだとすれば、日本の会社が本質的にはヒトでないってことでしょうに)。 株主が経営者を往々にしてコントロールできないのはなぜかと考えれば、支配的な株主でなければ経営者を監視するコストがそれにより得られる便益に見合わないことが最大の理由と言える。

すなわち、会社の経営を何らかの方法により立て直すことができれば株価が上昇するとして、その何らかの方法が何であるかを見出し、さらに株主総会で多数派工作をしてその方法の実施を強いるためのコストを考えれば、売って損切りをした方が結局は安くつくという株主が大部分であれば、その会社においては株主はガバナンスを効かせる主体にはならない。 上場するという行為が本質的にできるだけ多くの投資家から資金をかき集めるための行為だとすれば、こうした株主によるガバナンスの欠如は不可避といえ、本書に記載の株主代表訴訟やストックオプションにとどまらず、委員会等設置会社などの制度はみなそうした実態を前提として、代替的な手法を模索した結果なのである。

ちなみになぜ株主がガバナンスの主役になるかといえば、株主だけが純資産価値の減少にセンシティブだから。 銀行を含む債権者は債務超過や流動性不足にならない限りそうしたことには関心が薄いし、顧客は他の会社と取引するという選択肢を選べばよいわけだし、ということで、会社の存続が自らの現に存する雇用の維持の必要条件となる労働者が、あえていえば株主と同様にガバナンスに取り組むインセンティブが強い存在である。 だからこそ、本書で取り上げられているような「日本型」が一つの均衡になるのだが・・・。

最後にポスト産業資本主義と会社の関係についてだが、これも今一つ印象論に流れているきらいがある。 例えば本書における産業資本主義とは端的に第二次産業を想定していることはあきらかだが、産業資本主義の時代とされる日本の高度経済成長期であっても既に第三次産業が最大のGDP構成要素となっているし、その時点における一人当たりの生産性も第三次産業が優位にあった。 つまり、本書で最近においてポスト産業資本主義になったとされる証拠は、実は最近ではなく高度成長期に既に見られた事象であり、そのことと、いわゆる日本式経営が(後期)産業資本主義には適合しているもののポスト産業資本主義には不向きという主張を、単に労働力の都市部への移動と欧米の技術模倣だけで整合的に整理する(pp220, 221)のはいかにも苦しい。

さらに言えば、ポスト産業資本主義とは何かについてがよく見えてこない上に、すべての会社がポスト産業資本主義に直面するわけではない(例えば近所の床屋がポスト産業資本主義時代だからといってネットをつかって全国展開するわけではない。 終身雇用などについての議論などを見てもわかるように、本書は「会社」をテーマとしながら、実はほんの一握りの大企業しか俎上に上げていない)ことなども指摘できるが、これらについては10年以上前にライシュ「ワーク・オブ・ネーションズ」という定番が出ており、詳しくはそちらに譲りたい。

なんだか揚げ足を取ってばかりのようなテキストになってしまったが、冒頭記したように、議論のパッケージングは見るべきものがあるし、それぞれが以上のように突き詰めていくに面白い項目である。 繰り返しになるが、本書を生かすも殺すも、読者が次にどれだけ踏み出せるかにかかっている。

岩井克人(2003)、「会社はこれからどうなるのか」平凡社

(2004-03-14記)

好敵手、お待ちいたしております−「昭和恐慌の研究」(岩田規久男編著)

著者自身による的確な概要が示されている書籍の書評というのは難しい。 本書に関していえば、著者陣の一人である若田部により、この研究の大きな軸のひとつは当時の経済論戦の解明である(もう1つの軸は、恐慌および回復過程の計量的分析である)。 とまとめられてしまっており、実際、本書の骨組みをこれ以上過不足なくまとめることはwebmasterの力に余る。 したがって、以下はこの若田部のコメントを敷衍する形で進めていくこととしたい。

今の日本がデフレに陥っていることを問題視するにせよしないにせよ、それを論ずるためには歴史上のデフレを振り返ることは有益である。 歴史上、今の日本のデフレを除いた最新の事例はいわゆる大恐慌(世界恐慌)であり、これについてはテミン「大恐慌の教訓」に代表される豊富な研究成果が世に問われている。 しかし、それらは主としてアメリカにおけるデフレを対象としたものであり、日本におけるそれ、すなわち昭和恐慌については、世の出版物は中学高校の歴史教科書レベルの理解にとどまっているというのが一昔前までの実態であった。 いわく、ブロック経済化が進む中で国際経済から締め出された日本は、大陸への進出による窮境の打開を図り、その過程での財政支出=軍事費の増大が恐慌脱出の原動力となった、と。

そんな状態を打開すべく(というのはwebmasterの勝手な憶測であるが)、著者たちは昭和恐慌研究会(詳細は本書の「はじめに」を参照されたい)を結成し、これまでにも田中・安達「平成大停滞と昭和恐慌/プラクティカル経済入門」や若田部「歴史に学ぶ 大恐慌と昭和恐慌の教えるもの」(岩田編「まずデフレをとめよ」所収)等(いずれも本書の著者陣によるもの)の成果を残してきたところであるが、その現時点での集大成というべきものが本書である。

先に紹介した若田部のコメントのうち、恐慌及び回復過程の計量的分析についてはwebmasterにはその当否を論ずるべくもないが、少なくとも議論のたたき台を示した意義は素人にも明らかだ。 本書で否定的に解された仮説、例えば昭和恐慌やそれに先立つ(昭和)金融恐慌により不良債権処理が進んだことが高橋財政成功の理由の一つであるとか(小林の論説(新聞掲載の短いもの月刊誌掲載の長いものがウェブ上で拾える)が典型)、先に紹介の戦争により恐慌を脱したという歴史教科書的通説であるとか、そういった立場を今後主張する論者には、本書における議論を念頭におき、反証を示せるだけの検討を行なうことが期待されよう。 また、本書において岩田自身が残された課題として語っている昭和恐慌期の予想実質金利の変化の影響や、アメリカ大恐慌について最近なされているRBC(Real Business Cycle)の立場からの昭和恐慌の再解釈など、本書に対する批判的検討が行なわれ、それに対して著者陣が再反論を呈するといった形での発展も大いに待たれるところである。

かたや若田部がいうもうひとつの大きな軸である当時の経済論戦の解明は、類書なき素晴らしい業績と称える以外の言葉が見つからない。 本書の第2章から第4章までを一読すれば、誰でも当時の(旧平価)金解禁派の主張が現代日本の構造改革主義者のそれと相当程度重なることは容易に察することができるが、本書の意義がそれだけだとするのは過小評価だ。 なぜなら、本書の第2章の先駆的業績である若田部のディスカッションペーパーでそうした問題意識はすでに明らかにされているし、なにより先に紹介した「プラクティカル経済入門」では当時の議論と現在の議論のテーマ別比較がなされており(pp109-112)、当時と現在の対照に限るのであれば、本書はそうした先行業績をよく補完するものではあっても、類書なきというには当たらないからだ。

では、何をもって類書なき立場にあると言えるのか。 それは、本書の第2章から第4章に見られる、徹底的な一次文献の精査である。 無論上記の先行業績においても一次文献は丁寧に紹介されているが、何と言っても量が違う。 そして何らかの文献調査をしたことのある人間にとっては自明のことであるが、十分な量の違いは質の差と言ってよい(特に本書のようにデジタルデータ化されているわけでもない、それも正字正かな&カタカナ表記の文献を対象としていればなおさらだ)。

これまた岩田自身の言葉であるが、この部分の残された課題としてメディア・論壇における議論と実際の政策形成との関係の解明が挙げられているが、歴史学や政治学、メディア研究といった分野の専門家をも巻き込んだ学際的な取り組みが今から楽しみでならない(webmasterは、高橋(是清の方)など一部の例外はあれど、基本的には(ちょうど同時期の統帥権干犯問題などと同様に)政党間の政争のタネとして扱われたのではないかと思っている)。 優れた研究とは過去の積み重ねを花咲かせるものであると同時に、次に取り掛かるべき方向を示し、さらには反対する意見の水準向上をもたらしすらするもの。 まさに本書における当時の言論研究はそれに該当するものであり、これをスタートとしてさらに高度な論戦が繰り広げられてほしいと思わずに入られない。

岩田規久男編著(2004)、「昭和恐慌の研究」東洋経済新報社

(2004-03-28記)

修辞学という技法−「経済学という教養」(稲葉振一郎著)

長らく日本では、様々な主張を二分法的に捉える場合には「右」「左」という分類が用いられてきた。 しかし、それしか分類するすべがないということではもちろんない。 例えば、言葉というものに対するこだわり−言葉やそれを操る「人間」というものの存在自体に価値を置くのか、それとも言葉は単にコミュニケーションの一手段に過ぎないとしてそれにより表現される内容を重視するのか−なんていう分け方もある。 もし自分はどちらに当てはまるのか知りたいのであれば、タゴールとアインシュタインのエピソードを借用して、月はそれを見て物思う人間の存在があってこそと考えるか、月は人類創世前から将来あり得べき人類滅亡後に至るまで人間とは無関係に存在するものと考えるのか、そのどちらに共感するのかで量ることができよう。 この区分にわかりやすい言葉を当てはめるなら、本書に言う「人文系」かそうでないか、である。

実際のところ、日本では長らく、少なくともメディアの大多数はここでいう「人文系」で占められていた。 その期間における著名な言論人を思い浮かべてみると、例えば柄谷行人吉本隆明福田恆存江藤淳など、文芸畑の人間が並んでしまうことからもそれがわかろう。 他方人文系以外の人間では、戦後しばらくは丸山真男大塚久雄らの活躍も見られたものの、webmasterの私見では、日米安保体制の確立や高度成長を経て現実的な政策の方向性についての選択肢が事実上一本化され、政策の枠組みそのものに関する議論の余地がなくなっていく中で脇役へと後退していった。

そういう意味では、極東情勢も手伝って冷戦が終了してもなお安保の再定義についての国民的合意が形成されたわけではなく、「失われた10年」の経済低迷下にある現代日本は、他国と同様に非人文系のウェイトが高くなる見込みがあるとも言える。 しかし、かのホーキングがその著書「ホーキング 宇宙を語る」にて書籍に数式が一つ加わるたびに売り上げが半減するといい「知の欺瞞」は英米仏で相当な議論を呼んだことに鑑みれば、要の東西を問わず、「人文系」のプレゼンスが相当程度あることは避けがたいようだ。 まして、世代交代に一定の期間を要することを考えれば、今後しばらくの間における「人文系」の有意は動かないことだろう。

さて、長々と本書に直接関係があるわけではない記述を続けてきた。 その所以は、本書の売り方に違和感を感じたからである。 著者の狙いはそうは単純ではないことを承知で書く(第1章を読んだだけでもわかる)が、本書の帯には「『人文系ヘタレ中流インテリ』に捧ぐ」とあり、要すれば人間性を無視した数字と記号の羅列が経済学であると思っている人々に向けた経済学の手引きという位置づけである。 が、既述のとおり社会的マジョリティである「人文系」の中で、いったいどれほどの人がそうしたニーズを抱えているであろうか?

筆者によるブレイクダウンを見ると、ぼくが期待している読者はたとえば例のソーカル事件、そして「サイエンス・ウォーズ」でかなり不安になった人、「ポストモダン知識人の書き物のあらかたはファッショナブル・ナンセンスだ」と告発したアラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』(岩波書店)を読んで「ポストモダン本がわからないのは、どうやらこっちの頭が悪いからというだけじゃなかったらしい」と少しホッとすると同時に、「それじゃ人文系の知にはどんな意味があるってんだ?」と悩んだ人たちだ(p5)ということになるが、「知の欺瞞」を巡る言説をまとめた黒木のページを見れば、実際この問題について積極的に発言した人のほとんどは「人文系」ではないのだ。

付け加えるなら、「人文系」とそれ以外ではアッピールするポイントも異なる。 「人文系」の多くでは極論すれば説得=立場・考え方についての共感を得ることであり(具体例としてはインビジブルハートを読まれたし)、非「人文系」がロジカルな議論を展開したとしても、それが「人文系」にとって説得的であるかどうかには関係が薄いケースが往々にしてある。 本書に関して言うなら、本書を評価する中村達也の書評に著者が感じるもどかしさも、逆に本書を難じる松本功の書評に著者が感じる(大げさに言えば)絶望感webmaster注:リンク先に4月13日付けの記事がない場合はバックナンバーをチェックしてみてください)も、理解の程度と共感の程度に相関関係が観察されない一例である。 おそらく著者の誤読に対する憤りは相手に届くものではなく、それが届くと思っているのであれば、著者もまた相手の考え方、というよりむしろ感じ方の枠組みが彼岸にあることを見誤っているのであろう。

webmasterの見るところ、本書が真に必要とされるのは、同時に本書が想定するもう一つの潜在的読者グループ−どちらかというと実務的世界で生きている経済書・ビジネス書の読者たちに対しても、逆に人文系知識人の世界という異文化の匂いをちょっとかいでみていただく−「哲学」だの「思想」だのの人々はこういうことを考えているのか、を垣間見ていただく−というサービス(p22)という側面ではないかと思われる。 こうした観点からすれば、本書の白眉はマルクス経済学を対象とした第7章。 その根拠は、いみじくも本書が指摘しているように、人文系知識人の間では、どの程度自覚されているかどうかはともかく、主流派の経済学よりもマルクス経済学の考え方のほうが、じつはいまだに影響力が強い(p15)からだ。

とりわけ冷戦終了後に知的成長を果たしたであろう30代以降の人間にとっては、マルクス経済学はデフォルトで時代遅れの産物とみなされているわけだが、他方でそれ以上の世代(特に「人文系」である人々)にとっては、相当程度マルクス主義的な考え方の影響が残っている。 そうした若き世代が世に通じる議論をするためには、より上の世代に通じる言葉を用いて語っていく必要がある−世代交代まで漫然と時を過ごすのであれば話は別だが。 今さら資本論を読む気もしない、かといって森嶋通夫の「マルクスの経済学」では文系・非文系のコミュニケーションギャップをむしろ拡大してしまう可能盛大であるならば、まさに本書に示されたようなマルクス経済学の批判的ではあれど否定的ではない総括こそが求められていることになる。 世代を超えて自分の主張の理解を求めるならば、本書を読んでマルクス経済学に代表される「人文系」に親和性の高い修辞法に触れることは、最低限求められる技法であるのだ。

最後に、このテキストを読んで「人文系」を軽視する人がいるとしたら、それはwebmasterの本意ではない。 だからこそ冒頭にタゴールを引いたわけだが、それぞれ向き不向きがあり、非「人文系」が「人文系」に及ばぬ点などいくらでもある(まあ、属人的な要素のほうがはるかに優劣を決定付けるということだ)。 ただ、タゴールは決してマクロ経済政策に余計な口をはさまないであろうし、他方で現代日本では余計な口をはさむ「人文系」が多すぎる、というだけのことなのだ。

稲葉振一郎(2004)、「経済学という教養」東洋経済新報社

(2004-04-18記)

いっそトンデモだと思えれば−「神は沈黙せず」(山本弘著)

当サイトの書評でとりあげる最初のフィクションであるが、フィクションとしての書評ではないことと、若干のネタバレ(厳密にはメタレベルでのネタバレ)が含まれることを最初にお断りしておく。

さて、山本弘と言えば知る人も多いと学会会長であり、その書痴ぶりや博学さでも知られるSF作家である。 そんな彼であっても、いわゆる文系知識へのアクセスはこれほど困難であるのかとwebmasterを慨嘆せしめたのが本書である。 誤解を招かぬよう言い換えておくと、webmasterにしても筆者とは逆にいわゆる理系知識は乏しいのであって、知識のなさそれ自体を問題視するつもりは毛頭ない。 ただ、知らないことを知ることの難しさを嘆くのだ。 代表例を2つ取り上げて掘り下げてみたい。

1つ目は、当サイトの読者に親和性が高いであろう経済の話。 作中では近未来の日本が経済破綻し、それを受けてとある対応策がとられるが、それらの中身自体については、筆者自身が「こんなことが起きるとは思えない」という批判はご遠慮願います。 作者はそんなことは充分に分かったうえで書いていますのでと述べているのであるから、とやかく言うべきではなかろう。

慨嘆すべき点はそこではない。 経済には素人であると自認する筆者が創作に当たり参照した資料の方である。 巻末の参考文献において、経済問題に関連して挙げられているのは以下の4冊。

作中の経済破綻は、大枠ではこれらのうち跡田・浅井本と木村本に沿ったものとなっている。 前掲の筆者コメントとあわせて好意的に解釈すれば、これらの本が主張するところは起きるとは思えないと筆者が自覚した上で作中描写として採用したともとれるが、素直に解すれば、作中世界の設定にあわせてアレンジした部分については非現実的であると言っているにすぎず、その大枠は筆者が起こりえる将来像だと考えているように思われてならない。 というのも、当サイトの主張を賛否はともかく合理的な一つの体系だと認めてもらえるのであれば、跡田・浅井本や木村本に書いてあることなど、と学会世界におけるコンノケンイチの著作のそれと同じレベルであることに異論はなかろうが、筆者がそうした事情を承知で自作にとりこむとは思えないからである。

2つ目はプロットの本質に関するものとして、神の話。 本書における神の位置づけは予定説的である。 そう、世界史の教科書でおなじみの−手元に世界史用語集がないので断言はできないが−あのカルヴァンが唱えた予定説である。

予定説とは、多くの日本人の常識に合致するであろう因果律の対極にある考えである。 いいことをすれば救われ、悪いことをすれば罰が当たるというのが因果律であるが、予定説の立場からすれば、これは人間の不遜きわまりない思い上がりということになる。 なぜなら、救済の有無という神の判断が人間の行為に依存することになる故に。 人間ごとき、神からすれば取るに足らない存在の善悪などネグリジブルであって、神の判断はそんなものに振り回されるものではないと考えるのだ。 ある人が救済されるかどうかは予め定められているから予定説。

さて、本書を読んだ人であれば、この予定説が本書に全く登場しない−ある意味、「予定説」としてではなく登場してはいるのだが−ことにwebmasterが違和感を抱いたことを理解してもらえるだろう。 作中での神に関する疑問や悩みに対しては、予定説の枠組みから体系的な答えを導くことが可能であり、だからこそ筆者が主人公たちに与えた道筋も、予定説を知っている人間から見ると何とも微妙なモノになっているのである。

しかし、筆者がそれに気づいていないのみならず、本書を読んだ人間もそれに気づいている節が見あたらない。 筆者が主宰する掲示板でもそうした議論は全く見られないし、「神は沈黙せず 予定説」でぐぐっても現時点ではヒット0件である。 先の経済話とは異なり、プロットの中核をなす事柄であるにもかかわらず。 取材が足りないわけでもなかろうし、読者層がそれほど狭いわけでもなかろうし、とすればこの乖離は何に原因をもとめることができるのか。 作者の狙いとは異なる視点から笑い飛ばすというトンデモ本の定義に当てはまるものとして、webmasterは本書を笑いたいとは思うのだが、この疑問に突き当たってそれができずにいる。

山本弘(2003)、「神は沈黙せず」角川書店

(2004-06-20記)

(2004-06-27一部修正)

「失敗研究」の成功と失敗−「名経営者が、なぜ失敗するのか?」(シドニー・フィンケルシュタイン著、橋口寛監訳/酒井泰介訳)

失敗から学ぼうというコンセプトが注目を集めるということは、しばしば見られる情景である。 例えば、既に古典の域に入らんとする戸部良一他「失敗の本質」webmasterは、戦中日本を題材とした本であるならば大井篤「海上護衛戦」をより好むが)の書名を聞いたことがある人間は決して少なくないだろう。 一時期失敗学会の活動がメディアで注目されたことを記憶している人々もいるだろうし、爆笑問題のラジオ番組を通じてハインリッヒの法則を知った方もいるだろう。 そんなマーケットに新規参入を図ったのが本書である。

構成は極めてベーシックでわかりやすい。 簡単にまとめれば、まず数々の失敗例−本書はダートマス大学タック・スクールにおける講義を下敷きとしており、アメリカの事例が数多く取り上げられているが、雪印やソニーといった日本企業、そしてモトローラのような日本でも知られる大企業もあり、それほど抵抗なく読み進められるだろう−を詳しく描写し、ついでなぜそれらが失敗したのかを分析し、最後に失敗を回避するための示唆を導き出すというもの。 アメリカで出版される大学の教科書にありがちな、一見読む気を萎えさせかねない分厚さ(469ページ!)ではあるが、これまたアメリカ産教科書の特長どおりよく整理されており、心配には及ばないだろう。

そんな本書一番の特徴は何かであるが、まずは次のリストを見て欲しい。

  1. 無能な経営者
  2. 予測不能な事態
  3. 現場の混乱
  4. トップの怠慢
  5. リーダーシップの欠如
  6. 経営資源不足
  7. トップの私利私欲

企業の失敗の理由として誰もが思いつく項目であるが、筆者はこれらを「7つの俗説」として退けている。 世の構造改革原理主義者に是非とも目にして欲しいのだが、筆者曰く、"名経営者"がなぜ失敗するのか、その理由をこうした俗説に求めることができれば私たちの手間も省けたことだろう。 だが、事はそう簡単ではなかった(pp31, 32)のである。 そうしたことに目もくれず、経営悪化企業を十把一絡げにゾンビなどと呼んで悦に入っているヒョーロンカ連中の底の浅さがわかろうというものだ。

もう一つwebmasterが感心したのは、この世に万能薬はないということをきちんと押さえている点。 例えば「官僚的」といえば組織の悪弊の代名詞であって、経営学の教科書では罵倒の言葉として用いられることがほとんどであるが、本書は、もちろんその問題点は指摘しているが、同時に事実上、すべての大規模組織が何かしらの"官僚的組織"を採用しているのは、理由がないことではない。 "官僚制"は安定性、説明責任、そして効率をもたらすからである。 多くの人々は"官僚制"という言葉を忌み嫌うが、実際には、"官僚制"なしに存続できる組織などほとんど存在しない。 マックス・ウェーバーがずっと昔に指摘したことだ(p303)とも語っている。

その他、所有と経営の分離に問題があるのと同様それらの一致にも問題はある(p79)とか、現場に権限を委譲すれば業務に集中でき細部へも目配りできるようになるが、各現場の縄張り争いを招く原因にもなる(p117)とか、企業トップが様々な問題を引き起こした張本人であっても、それを馘にしたからといって問題が解決するとは限らない(p214)とか、社員の士気を高めることは大切だが、自画自賛に陥る危険に配意しなければならない(p278)であるとか。 考えてみれば極めて常識に属することではあるが、逆にそうした点をおろそかにせず限界を見極めている点は素直に評価できよう。

そんな美点を備えた本書はあるが、webmasterが失敗研究にありがちと考える陥穽にはやはりはまってしまっている。 それは何かといえば、成功例との対比がなされていないことである。

こう書くと疑問に思う人も多かろう。 失敗研究はそのほとんどが成功例と比較対照を行っているではないかと。 本書にだって成功例が豊富に掲載されているではないかと。 だがそれらは、あくまで失敗研究が指摘する失敗の原因を回避したが故に成功した、という事例であるにすぎない。 ところが現実の社会では、失敗の原因を抱え込んでいながらなお成功した事例、逆に成功の原因を抱え込んでいながらなお失敗した事例というものがいくらでも観察できるのだ。

例を挙げてみよう。 本書では失敗に係る警告サインとして5つの分野に関する17のチェックリストが提案されている。 その中の一部(全部が何かは本書を紐解いていただきたい)を紹介すれば以下のとおりである。

過剰な誇大宣伝(ハイプ)に気をつけろ

13 期待の新製品が、単なるハイプである可能性はないか?

14 期待の合弁買収(M&A)が、単なるハイプである可能性はないか?

15 期待のプロジェクトが、単なるハイプである可能性はないか?

16 深刻な問題の予兆となるスケジュールの遅れや目標不達成が最近ないか?

(p357)

これらにことごとく当てはまる前科を持つ有名企業に思い当たらないだろうか? そう、マイクロソフトがそれである。

他方でそのライバル企業であるアップルやサン・マイクロシステムが、本書において成功の秘訣とされている社内の風通しのよさにおいてマイクロソフトに勝るとの評判を勝ち得ながら、なぜ結果は逆になってしまうのか−アップルはこれまで、ある意味風通しが良すぎたが故にあまりにも多くの可能性を実現できず、サンにいたっては、経営悪化からマイクロソフトに「講和」を申し入れざるを得なくなっている−その理由は、本書を読んでも明らかにはならない。

結局のところ、操作変数のみを動かしてその他の条件を同一に保った形で実験することができないため仕方がないのだが、読み手はそこを十分に踏まえて本書に対峙する必要がある。 これさえやっておけば大丈夫だとか、こんなことをしていては失敗は避けられないとか、そのように教訓を過度に単純化して失敗を再生産するようでは、何のために失敗に光を当てたのかわからなくなってしまうだろう。

シドニー・フィンケルシュタイン(2004)、「名経営者が、なぜ失敗するのか?」日経BP社

(2004-07-18記)

問いなおされて考えてみたこと−「憲法と平和を問いなおす」(長谷部恭男著)

正直申し上げると、webmasterは学生時代、憲法の講義が嫌いであり、憲法についての本など読む気がしなかった。 なぜそう考えたかについて一例を挙げれば、長沼ナイキ訴訟の地裁判決に典型的に見られる、第9条に関する現実を無視した護憲論にあきれ果てていたからである。 自衛権の行使は、たんに平和時における外交交渉によって外国からの侵害を未然に回避する方法のほか、危急の侵害にたいし、本来国内の治安維持を目的とする警察をもってこれを排除する方法、民衆が武器をもって抵抗する群民蜂起の方法もあり、さらに、侵略国国民の財産没収とか、侵略国国民の国外追放といった例もそれにあたると認められ長沼ナイキ訴訟の地裁判決るなどという意見がもてはやされていたのだから(この証言をしたのは田畑茂二郎(国際法学者)ではあるが)。 まあ外交努力はいいとして、軍事侵攻に対抗できる警察は名称が警察だとしても実質的に軍隊だろう(逆に言えば、普通に言う警察に軍隊と正面から対抗する力はない。 というか、名称が軍隊じゃなきゃいいなら自衛隊でもいいだろう)とか、群民蜂起って左の人間ならパリ・コミューンスペイン内戦時の共和国政府側の悲惨な結果(それでもワルシャワ蜂起に比べればかなりましだが)を知っているだろうとか、財産没収や国外追放がいかなる形で自衛につながるのか意味不明だとか。

そんなwebmasterにとって、本書は題名からして縁遠くて当然のようであるが、稲葉振一郎氏のインタラクティヴ読書ノート・本館避難所における議論を見て思わず手に取ってみたくなってしまった。 読んで納得、確かに議論が熱くなるだけの内容である。 当然ながら、先に紹介したような、伝統的な護憲派による自衛権行使についての考え方から導かれる帰結もきちんと押さえてある。

では、いったいどういった内容なのかというと・・・単純でない問題を単純であるかのように説明するのは、詐欺の一種である(p9)と筆者が断っているその本の内容を簡単にまとめられるという自信は、webmasterにはない。 そこで、本書を読んでwebmasterがどのようなことを考えたのかを記し、そういったことを考える材料を含んだ本であるという形で、間接的にその紹介をすることとしたい。

筆者の発想の大本は、民主主義にもとづいて行使される国家権力でさえ制限されるという点に、立憲主義の強みとその謎がある(p13)という一節に代表されると考えられるが、その「強み」は本当に「ある」のだろうか? とwebmasterは疑問に思う。 この命題が真であるためには、民主主義に基づく意志決定の内容が立憲主義に反するものである場合に、その意志決定を無効化する強制力が立憲主義に備わっていなければならないが、果たしてそんなものはあるのだろうか。

最初の手がかりとして、オデュッセウスとセイレ(ー)ンのエピソードを引きつつ、民主主義国家にとって憲法が持つ合理的自己拘束としての意味は、このオデュッセウスの寓話にわかりやすく示されている(p156)という本書の記述を考えてみる。 この記述の含意するところは、民主主義は自らに立憲主義という拘束を課したのだからそれに従うということになろうが、これが一筋縄ではいかない。 オデュッセウスがセイレンの歌声に抗し得たのは、いみじくも筆者が書いたように部下に命じて自分を帆柱に縛り付けさせ、しかも、万一自分が縄を解いてくれと合図でもしたら、ますます一層強く締め上げるようにと命(p155)じたから。 これになぞらえるのであれば、筆者が立憲主義の制度的担保の一つであるとする硬性憲法では足りず、憲法の改正を禁じなければならない(先のオデュッセウスの例で言えば、1回や2回の合図なら一層強く締め上げるが、10回合図をしたらそのときはほどけと命じていたら、船は沈んでいただろう)。

しかし、憲法の改正を憲法により禁止することは、立憲主義に内在する制約から取り得ない選択肢である。 自然権論も、それに基づく立憲主義も、何か特定の宗教や哲学によって基礎づけられているわけではないことには注意が必要である。 立憲主義の底を掘っていくと、たとえば、人間だけが平等な権利を生来与えられたものとして万物の創造主によって創造された、というテーゼに行き当たるわけではな(p60)く、あくまで比較不能な価値の共存に重要であると経験的に考えられるにすぎないからだ。 こうした考え方に立脚する限り、憲法の規定は絶対的に正しく、その修正の必要は未来永劫生じ得ないという前提に立って初めて正当化され得る改憲禁止規定は設け得ないのは理の必然だ。

だから理論的には、改憲規定がある限り立憲主義を否定するような改憲も可能だ。 現行憲法の基本理念を変更するような改憲はあり得ないと言ってみたところで、現に日本国憲法は大日本帝国憲法の基本理念を変更しているのだから(それを法学的にどう正当化するかについては、憲法学の世界でも泥沼化した議論に陥っているので立ち入らないが、大日本帝国憲法も日本国憲法もそれぞれがそれぞれの時代で有効である−その間に断絶があるかどうかといった細かな論点はともかく−ことには異論はなく(少なくともまともな議論と言えるものでは)、であれば「変わった」という事実はその法的構成がどうであれ否定されない)。 日本国憲法への変化は「良くなった」ものだからいいのだという考えは、本書の立憲主義と共存する考えではないことはいうまでもない。

さらにラディカルな問題を考えるなら、改憲規定に則らない改憲が無効であることの制度的保障が可能かどうかというものがある。 当然憲法学者は無効だと主張するだろうが、憲法学者がそう解釈するから無効だなどということには絶対ならないのは確かだ。 もちろん、その改憲には司法の違憲立法審査権も及ばない(憲法を改正する法令は当然憲法である一方、違憲立法審査権の対象はあくまで法律以下の法令。 ぎりぎり及び得るとするなら、不文憲法とコモンロー裁判所の国イギリスぐらいなものか)。

筆者のこの問題に対する答えらしきものを探せば、本書において繰り返し主張される、アプリオリな線があらかじめ存在しないからこそ、いったん引かれた線にこだわらねばならない。 後退を始めれば、アプリオリな線がない以上、踏みとどまることのできる地点はどこにも存在しない。 公私の境界線に関して、たとえば最高裁判所が保護の線引きをすれば(・・・)、よほどの事情がない以上、それを維持していかなければ、人々の期待を裏切る措置が行われることになり、決まっているはずのことを、各人の抱く価値観にもとづいて後から変更する不公正な扱いがなされたとの非難を招くことになる(pp73,74)というものだろう。 つまり、趣旨・内容が絶対的に正当化されるものではなくとも、いったん決めた以上はそれを正当なものとして扱わなければならない、という立論である。 が、これでは残念ながら不十分だ。 第一に、先の引用でも「よほどの事情がない以上」という留保がついているように、この縛りは「よほどの事情」で覆し得る。 第二に、これも一憲法学者の見解にすぎず、制度的な担保はやはり何もない。

結局、この疑問に対する回答としては、webmasterの考えでは、先の立憲主義の強みとは、事実がそうだというのではなく(さらに言えば、究極的には立憲主義は民主主義の制限足り得ないのだから、事実でないというにとどまらず事実に反している)、そうであるべきという主張にすぎないということになる。 立憲主義は自然な考え方ではない。 それは人間の本性にもとづいてはいない。 いつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる(p180)というテキストを見ると、筆者の考えはwebmasterのそれとそう遠く離れてはいないと思える。 他方で、ここまでの議論は広い意味では自然法論法実証主義との間で長年繰り広げられてきたものの一つのバリエーションであり、そう簡単に止揚されるものではないようにも思える(誤解を招きそうなので蛇足かもしれないが付け加えると、筆者の見解が自然法論の系譜に、webmasterの見解が法実証主義の系譜に、それぞれ属する)。 この点について、筆者の本書の議論の先にある見解を是非聞いてみたいものなのだが。

さて、ほとんどwebmasterの考えを書き連ねておいて書評というのも気恥ずかしいものがあるので、このテキストを読んでなにがしかの知的好奇心(それが賛成であれ反対であれ)をそそられた人間にとってはお薦めだ、と最後に付け加えてお茶を濁しておきたい。 リトマス試験紙として適切なのは、本当はwebmasterの駄文などではなく、本書のあとがきではあるのだけれど。

長谷部恭男(2004)、「憲法と平和を問いなおす」筑摩書房

(2004-08-22記)

ゆめゆめ信者となることなかれ−「FREE CULTURE/いかに巨大メディアが法をつかって創造性や文化をコントロールするか」(ローレンス・レッシグ著、山形浩生・守岡桜訳)

本書を読んで何に驚いたかと言えば、多分これはwebmasterに属人的なことだが、p348で紹介されているハーバード大学の法学教授ウィリアム・フィッシャーによる著作物使用に対する補償制度の提案である。 なぜなら、以前当サイトで本書の前著にあたるコモンズを取り上げた際の、webmasterの提案とほぼ同趣旨だからだ。 webmasterの提案が先んじていたというのであればこれ以上名誉なこともないが、当然ながらフィッシャー案の方が3年以上先だ(最終改訂2000年10月)。 なんとも得意げに書いていたことが恥ずかしいものだが、身の程を知らせてくれた本書にはまず感謝の意を表したい。

だが、誠に残念なことに、そんな恩義があるにもかかわらず、本書に対するwebmasterの評価は、眉につばを付けて読むべし、というものにならざるを得ない。 というのも、本書はアジテーションを目的としており、平均以上に批判的精神をもって相対することが適当だからだ。 アジテーションが目的であることは著者が自ら明らかにしているところであるが、いかにもそれっぽい表現はまだまし。 多くの部分で著者自身が自らの思考にとらわれており、彼がアジテーションを目的とせずに書いたであろう文章の中にも、危険なところがいっぱい。 要すれば、マイケル・ムーアの著作のように扱うべきなのだ。

なんてことを書くと多くの反発が来そうである。 あんな下品なものと同列に扱うべきとはどういうことかと。 ある意味同列に扱っていけないというのは適切な評価であって、本書は華氏911アホでマヌケなアメリカ人などと比べると、目的は手段を正当化するという信念に基づかない無自覚の産物であり、前言を翻すようでなんだが、ムーアよりもネオコンの言説に似ている面がある。 改めて整理すると、ブッシュ政権、悪の枢軸、著作権を濫用する大企業といったものを諸悪の根元として攻撃する姿勢があるという点でムーアとネオコンの思考と本書は似ており、さらにネオコンの思考と本書は、自分の手法がまっとうなものではないかもという自覚・自省が少ないという点でとりわけ似ている。 以下、いくつか具体的な指摘をしてみたい。

例えば本書はケーブルテレビやラジオにおける市場集中等の例をあげた後、歴史上、文化の発展をこれほど少数の人々がここまでコントロールする法的権利を持っていたことは未だかつてないのだ(p205)webmaster注:強調は本書による)とするが−そして多分それは正しいのだろうが−、でもそれに対処するために行われるべきなのはまずは競争政策の強化であって、著作権の内容の変更ではないはずだ。 かの有名なロックフェラーのスタンダード・オイル・トラストだって競争政策によって解体されたわけであって、「石油採掘権法」とかいう法律の立法により業務に制限が加えられたわけではない。 メディア集中の危険は、集中そのものからくるわけじゃない。 むしろその集中が著作権の変化と結びついてもたらす封建主義にある(p314)という主張は、webmasterには筆者が著作権問題にこだわりすぎるあまりのものに思え、要検証だと考える。

また、エルドレッド法案(そのキモは下記引用部でご了解いただけると思う)について著者は次のようなメリットを上げる。

実際、多くの人は登録を必要とすることの明らかなメリットを理解してくれた。 というのもコンテンツのライセンスを受けたいと思う人にとって、一番やっかいな問題の一つは、著作権を誰が持っているか調べるためのはっきりした場所がない、ということだからだ。 登録が必要でないなら、なんの手続きも必要ないから、著作権保持者を見つけてその作品を使わせてくれとかライセンスをくれとか頼むのは不可能に近いほど難しい。 このシステムはこうしたコストを下げて、著作権保持者がはっきりわかる登録場所を確立することになる。

(p292)

しかしこれにしても、著作権強化論側に立てば、積極的に使って欲しい/使ってくれてかまわないと考える著作権者が登録をすればいいということ。 現にGPLクリエイティブ・コモンズがあるのだからそっちで好きなようにやってくれ、なんでそっちの流儀に合わせなければいかんのだと言いたくもなろう。

ん? 期間延長の原因となっているのは価値ある著作権だ。 ・・・だが著作権の延長が社会におよぼす本当の悪影響は、ミッキーマウスがディズニーのものであり続けることではない。 ・・・本当の悪影響は、有名ではなく、商業的にも利用されず、結果的にもはや入手できない作品に対するものだ(pp259, 260)から、それでは全然ダメじゃないか! ・・・という反論が当然出てくるだろうが、有名でもなければ商業的にも利用されない著作物が朽ちていくことが本当に悪影響なのかには大いに議論があるはず。 多くの人は、そんなどうでもいい著作物の再利用を促すことと、それをあきらめる代わりにディズニーが張り切って新作を出してくれることのどちらがいいかと問われれば、圧倒的に後者が多いだろうから(若干脱線だが、だからエルドレッド裁判で弁護団が主張した、著作権強化の害を証明するという戦術はそう簡単なものではないと思う。 さらに脱線すれば、その戦術すら拒否して自分の好みを優先させた著者は敗訴についてまずそれを教訓とすべきなのに、「エルドレッド裁判」の教訓とは、この問題について、一般の人たちが関心を持つようにならなければ、我々に勝ち目はない、ということだ。 著作権問題が多くの人たちの関心を引くようになった時、裁判所もまた、この問題を考え始めるだろうと自分の正しさに疑いを持たず、世間や裁判所の無理解に原因を求めるようでは・・・)。

だから本書は、著者の理念を相対化しその実現に向けた戦術を立案するための反面教師として読まれるべきであり、盲目的に賛同するような人には薦められない。 というか、そういう人ばっかりが読んで過激化・先鋭化が続くようだとかえって著者の主張の実現からは遠のいてしまうのではないだろうか−エルドレッド裁判で著者が犯した誤りを拡大再生産することによって。 本来この問題は、プロライフ対プロチョイスのような形而上学的価値観が対立するケースとは異なり、しょせんは金で片づく話(少なくとも一方の当事者である著作権者にとっては)なのだから共存の道を一番探りやすいはずなんだが、わざわざ泥沼に入り込んでいくのは愚かしいにとどまらず、誰にとっても不幸な話である。 iTunesについてすら原理主義的にケチを付けているようでは、残念ながら先に待つのはやっぱり泥沼であるのだろうが・・・。

ところで最後に、読者にアメリカ憲法について詳しい方がいらっしゃることを期待して、一つ疑問点を書かせていただきたい。 著作権に関する進歩条項、本書の訳を引用すれば議会は、著者や発明者に対して、それぞれの著作(中略)に対する(中略)独占権を有限時間だけ確保することで(中略)科学(学問)と有用な技芸の進歩を推進する力を持つ。(p253) という条文の解釈についてである。 筆者はロペス訴訟における通商条項、すなわち議会の権限を州間通商の規制のみに限ることに関する裁判所の判断を援用して、著作権に関する議会の権限もまた限られるべきとの解釈をしている。 だが進歩条項は、議会は著作権の有効期限に制限を課す力を持つ、という規定ではない。 よって通商条項を援用するのは誤りで、やはり著作権強化が創作活動の進歩を推進するものであるかどうかを争点にしなければならなかった(極論を言えば、著作権の期限延長が世の創作活動の進歩の推進に貢献するものであれば、むしろ有限時間を伸ばすことが議会に求められる)と思われるのだが、この解釈は論外なのだろうか?

ローレンス・レッシグ(2004)、FREE CULTURE/いかに巨大メディアが法をつかって創造性や文化をコントロールするか」翔泳社

(2004-09-21記)