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writings concerning kasumigaseki issues and others: 日本道路公団騒動始末記

総括編

前編

ずいぶんと間が空いてしまったが、最近の郵政民営化に関する議論もにらみながら、一つの区切りとして道路公団等の民営化を巡る動きを総括しておきたい。 といっても、メディアで多く見られるような、無駄な道路建設を止めるために民営化したのに、建設が続けられる仕組みになっているから失敗だ、というような間抜けなものでは当然にない−読者にはご賢察いただけるだろうが。 道路公団はあくまでも高速道路建設を効率的に行うための道具にすぎないのであって、自ら道路を建設するという意志決定を行って勝手に道路を造っているわけではないのだ。 そんな道路公団の組織をいじくったところで道路建設を止められるはずもない。

今回の騒動で明らかになったことが何かといえば、国民という集団における価値観の共有がうまくいかなくなってきているということ。 わかりやすくいえば、「地方」と「都市」の対立である。 今後高速道路建設をどうすべきか、という論点等を巡っての価値観の両極は次のようにまとめられよう。

「地方」派
高速道路建設についての考え方:都市部(太平洋ベルト地帯)から優先して高速道路を整備することを許したのは、国の発展のために優先順位を付けることを受け入れただけ。 都市部の高速道路が整備されたら、当然次は地方の番。 都市にだけ作っておいて、地方に作る段になって効率性云々を持ち出すのは詐欺みたいなものだ。
都市と地方の格差についての考え方:若い人間は都市に流出し、地方の貯蓄も都市で投資されているが、なぜ地方に住んでいるというだけでこうした格差に甘んじなければならないのか。 国民は平等に取り扱われるべきで、国が責任をもって地方の基盤整備をすべき。
「都市」派
高速道路建設についての考え方:高速道路を建設するなら、外部効果を含め経済効果の高いものにすべき。 都市部の高速道路が優先的に整備されたのは、その経済効果が高いから。 たいした効果が見込めない地方の高速道路の建設など金の無駄だ。
都市と地方の格差についての考え方:人が集まるのは雇用機会が豊富だからだし、金が集まるのは投資機会が豊富だから。 国が介入して地方に金を持っていくのはたかり癖を育むだけだから、そんなお節介はせず地方の自助努力を促すべきで、それにより魅力的な地域へと変わることができれば人も金も集まる。 だいたい、そんなに不便がいやなら都市に引っ越せばよい。 好きで地方に住んでいるくせに贅沢言うな。

結論から言ってしまえば、この2つの価値観の対立は、中長期的には「地方」派が絶望的なまでの少数派に転落することで解決するだろう。 「地方」と「都市」は、人口以上に住む人の属性が異なる。 高齢化のスピードが段違いに速いことに加え、高付加価値産業の知的インフラとでもいうべき職種−弁護士や公認会計士、外国語やコンピュータ関連のスキル所有者や研究者など−の分布を見れば、圧倒的なまでの濃淡がついている。 つまり、政府の介入が相当程度あったとしても、それがスターリンによる強制移住ほど極端なものでなければ、民間ベースでの格差拡大のペースが若干は鈍ろうとも、反転することは想定しがたい。 一部の「地方」では衰退を免れるところもあろうが、全体の趨勢はあまりにも明らかだ。

こうした対立が最近になって先鋭化しているのは、格差が最近になってから生じたからでは無論ない。 高度経済成長に伴う大規模な人口移動からの時間の経過がこうした先鋭化をもたらしたのではないか、というのがwebmasterの推測だ。 「都会」へ移動してきた第一世代、すなわち出身地への郷愁や共感、さらにはある種の罪悪感−自分は故郷を見捨てて都会でいい暮らしをしている−を持っており、地方への重点的な資源配分をある種の仕送りや贖罪だと受け止めることができる世代は引退しつつある。 他方でその二世・三世、つまりは生まれながらにして「都会」に属し、「地方」への特別な思いを抱かない世代が現役にどんどん参入し、社会の中核を担いつつある。 とすれば当然、「地方」への所得移転への抵抗感は高まる。

しかも、そうした最大公約数的な価値観の変化については、それに追いついていないとある要因により、変化そのものがもたらす軋轢以上の軋轢が社会に生じていると考えられる。 次回は、その要因とは何かについて論じてみたい。

(2004-09-21記)

中編

前回予告したのは、「都市」と「地方」の感覚のズレが軋轢を生んでいるわけだが、とある要因によってそれがより大きなものとなっており、そのとある要因とはなんだろうか、ということ。 それが何かを考えるに当たって、最初に民営化委員会という組織に着目したい。

何らかの制度改正を行う場合に一番ありがちなのは各省庁で検討し、この手の委員会は省庁に設置された審議会が同様の役割を担うというもの。 まあ今回のテーマについては、天下りなども問題視されていたこともあり、この手法が用いられなかったというのもわからないではない(世間で勘ぐられているほど審議会の議論は偏っていないというのがwebmasterの私見だが、そう勘ぐられているという事実は否めないし、勘ぐられている以上出した答えが受け入れられない可能性も相当程度あるのもまた事実だ)。

では、民営化委員会は省庁−本件について言えば国土交通省−で検討を行うよりベターな検討を行える性格の組織だったのだろうか。 結論からさかのぼるのではなくその成り立ちを考えてではあるが、少なくとも道路建設の抑制をすべきかどうかという議論にふさわしい組織であるとは言い難かった−道路公団という組織をミクロ的な見地からどうすべきかという議論であればまだましだったが。

マクロ的に、地方にも道路建設を行うことの是非を論じたいのであれば、まずは道路建設の計量的効果について議論ができる人間を集める人間が必要であろう。 また、地方の利益を代弁する者も必要である−道路建設抑制は地方にとって悪影響なのだから、そうした影響を被る立場を無視する検討プロセスが妥当だとは言い難い(皮肉なことに、中村委員がこれに近い主張をしたが、彼に求められた専門知識は都市計画・地域計画であり、ある意味上記のマクロ的立場に「かすって」いた。 その彼の処遇を見ると、委員会の最終段階でまさにその意見が無視されることとなったのである)。 さらに、経済的なメリット・デメリットをさしおいてでも社会的公正性の確保等の観点から、かかる資源配分への介入が必要だという議論もあり得るわけで、そうした問題を研究している法哲学者の参加も有益だろう。 しかし、委員会の委員にはそのいずれもいなかった。 これが、民営化委員会が道路建設継続の是非を議論する場として適当でなかった理由である。

だが見方を変えれば、この人選は極めて自然なものである。 どう変えたらかと言えば、アプリオリに道路建設を抑制することは正しいという見方に、である。 道路建設継続はおよそ取り入れる余地のない愚作であり、そんな主張に耳を貸すだけ時間の無駄だと考えれば、そんなことを言いそうな人間を排除した場で議論を進めることは合理的。 メディアの大多数もそうした見解であったことを記憶する人も多かろう。

当然ながらこうした都市サイドの利害を前面に押し出す検討プロセスが軋轢を拡大した要因と考えられるわけだが、さらに一段掘り下げてみるとそう簡単に断ずるわけにはいかない。 なぜそこまで「都市」が強硬な態度に出たかを考えれば、その理由は国会での意思決定への懐疑に他ならないからだ。 典型的な例を挙げればいわゆる一票の格差問題だが、唯一の立法機関として国の方向性を定める国会が過剰に「地方」に肩入れしていると思えばこそ、「都市」は国会を骨抜きにする手段の一として民営化委員会を編み出したと整理可能だ。 であれば、やはり問題は地方の「エゴ」と、それを国会での意思決定に反映することを許している選挙制度なのだろうか?

だが一票の格差問題の歴史を紐解けば、この問題が今になって始まったものではないことがわかる。 なぜ今かを考えると、この問題の社会的受容に思いを馳せなければならない。 だいたい、これが人権問題になるのは憲法の条文の文言から単純に導き出されるものではない。 例えば選挙権には20歳という年齢制限が設けられていて、それは憲法第15条第3項の「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」という規定を受けてのことではあるのだが、憲法の条文は未成年者に選挙権を与えてはいけないとは文言上は規定していない。 この条文は、ある程度の判断能力がない人間には選挙権を与えるべきではないという「常識」に基づく規定で、未成年者に選挙権を与えないことは憲法上問題ないと解するのが通常だが、では19歳11ヶ月30日の人間は、20歳ちょうどの人間に比べて甚だしく判断能力が劣るというのだろうか。 当然そんなことはなく、能力判定試験などを行なうよりは、実際の判断能力の有無を問わず機械的に年齢で切ったほうが全体として問題が少ないという「常識」に基づいて、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利」という条文の合理的制限だと社会的に受容しているだけのこと。 とすれば、一票の格差問題が深刻なものとされるのは、「その程度の格差は仕方がない」というかつての最大公約数的な認識が変容しつつあることの証しでしかない。 言い換えれば、一票の格差が問題なのは、それを国民の多くが問題と考えているからというトートロジーにしかならない。

結局のところ、そのように遷り変わった社会的多数派の意見を踏まえつつ国家の意思決定をどのように行うべきか、はやり言葉で言えばガバナンスのあり方についての問題を今の日本が抱えているのだ、ということを道路公団を巡る騒動ははしなくもあらわにしたと言えよう。 最終的には「地方」の減衰により解消されるだろう、というのは前回明らかにしたwebmasterの見解であるが、それまでの間この問題を放置しておいて良いというものでもあるまい。 以前書いたことではあるが、自民党が分裂し都市部自民党と民主党の2大都市型保守政党が対抗し、キャスティングヴォートを行使する立場に地方部自民党が立つという姿が、当面、実現可能性がそれなりに高く、かつほどほどに都市と地方の対立を緩和する道ではなかろうか。

(2004-10-31記)