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/テーマ別書庫/膝蓋腱反射(目次)[8]/2003-Q4

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膝蓋腱反射

2003-Q4

2003-10-15「道路公団総裁解任劇」

ずいぶんとみっともないことになっているな、というのが正直な感想。 webmasterは、以前「月旦評」にて藤井総裁をとりあげたとき、彼を備中高松城の清水宗治に例えて更迭を論じた。 つまり、辞表を書かせたいのであれば、彼に大義名分を与えることは当然と考えていたわけだ。

「これまでいろいろと経緯が積み重なってきたが、それはお互いの立場あってのことで、あなた個人がどうこうとは思っていないが、ことここに至っては、あなたに身を引いていただかないと、これからの日本の道路行政をどうするかも、公団をどうするかも、議論があなたの処遇に偏してしまっており、冷静な検討ができなくなってしまっている。 こうした形であなたに非難が集中していることについては、自分としても世間の見方は偏ったものだと思うし、ましてあなたには言いたいことがたくさんあると思う。 しかし、そこを枉げて、将来の日本の道路のため、ご英断をお願いしたい。 政治の理屈を押しつけ、汚名を一身にかぶせる結果になってしまったことは大変申し訳なく思うが、身を引いていただけないだろうか」

5時間も話し合っていたのであれば、こうした趣旨の発言を繰り返し、伏し拝んででも辞表を書かせていると思うのが大人の常識というものだろう。 しかし、藤井総裁側の言い分だけでなく、石原国交相側の発言を見ても、単なる売り言葉に買い言葉な応酬に終始したようであり、これでは辞表が出てくるわけもない(のに、6日に出てくると石原が思っていたというのも笑止だ)。

さらなる石原国交相の悪手が、会談の内容をメディアに暴露したこと。 今となっては藤井総裁はまさか自分の地位が守れると思っているはずもなく、できるだけ騒ぎを大きくして、ただではやられはするものかと意地を通そうとしているところに、わざわざ釣られたようなものだ。

疑惑があったと世に知れてしまえば、藤井総裁が替わった後にその真相究明を迫られるのは石原自身であるにもかかわらず、そこまで頭が回ることなく、瞬間的に世に自分の立場を正当化するためだけに発言するなど不用意きわまりない。 一部では、疑惑の関係者は石原サイドの人間ではないことから狙って暴露したとの解説も語られているが、行改担当相時代の当事者能力のなさを見れば、それは過大評価であろう。

おそらく17日の聴聞後に、法的に「役員たるに適しないと認める(日本道路公団法第13条第2項)」に足る理由(世間で批判されているとか気にくわないとかではねぇ・・・)を示すことは困難であろうから、訴訟を提起し不当解任を藤井側が問うてくる可能性は高い。 疑惑解明と訴訟と、こうした難事をうまく捌いていけるとは到底思えず、自らの短慮が招いたこととはいえ、石原国交相の経歴上の大きな汚点となるのは避けがたいだろう。

しかし、それにつけてもよくわからないのは小泉首相の考えだ。 先にも触れたが、行革担当相時代を見れば、この問題を石原がうまく処理できるとは思えないと考えてしかるべきだったはず。 にもかかわらず彼を国土交通大臣に任命したのは、石原の力量を見誤っていたのか、それとも藤井の意地を見誤っていたのか。

一時は、息子の伸晃が失敗することを見越して慎太郎の動きを封じているのかとも思ったが、これほど問題がこじれるようでは、メリットよりデメリットの方が大きいだろう。 常々webmasterが政局に強いと評価している小泉ではあるが、高い支持率に少々おぼれて、めずらしく人事で失敗したということなのだろうか。

(2003-10-15記)

2003-10-19「続・道路公団総裁解任劇−聴聞」

去る17日に行われた藤井総裁解任に関する聴聞であるが、日本経済新聞に掲載されたやりとりを追って、その内容を解説してみよう。 なお、日本道路公団法行政手続法に一度目を通されると、理解の助けになろう。

藤井総裁聴聞やりとり詳報(1)より

藤井氏側の代理人 最初に言わせていただきたい。1956(昭和31)年の最高裁で、福岡県警の聴聞までの期間についての判例があるが、その判例に違反している。 今回の聴聞は、通知から聴聞期日までの余裕期間が著しく不足している。 これについて、まず冒頭で抗議したい。 聴聞自体には真摯(しんし)に臨むが、今回の手続きは最高裁判例に反する明確な瑕疵(かし)と認められる。

主宰者の山本繁太郎国交省政策統括官 今回は10月7日に聴聞通知書で、17日午前10時からの聴聞を通知した。 これは行政手続法15条に基づくもので、15条では、聴聞を行うに当たって「相当な期間をおいて」としており、今回の期間は国土交通省としては相当なものだと判断した。

代理人 その国交省の解釈に誤りがある。 福岡県警は猶予期間を15日間で聴聞をしたが、今回は10日の猶予期間しかなかった。 私どもには準備期間が足りなかった。 10日間ですべてを明らかにして、実質的な審理をするには不十分だ。

行政手続法の解釈論については代理人側の主張に理があり、行政手続法のコンメンタールでも、15日ではまだ短いという学説はあれど、それより短くてよいという主張はまずあるまい。 しかし、それが原因で処分が違法と判断されるかどうかは少し疑問。

代理人側が主張する判例が昭和31年7月6日最高裁第二小法廷判決(昭和29(オ)762)懲戒決議並びに懲戒処分取消請求(民・第10巻7号819頁)であるなら、その要旨を見る限り、あらかじめ定められた期間を無視したことが無効事由とされており、行政手続法のごとく「相当の期間」であれば、無効とするほどの著しい違法性は認められないとの判断もありえるからだ。

藤井総裁聴聞やりとり詳報(2)より

代理人 これは分限処分なのか、懲戒処分なのか。 処分の基準が分からなければ、審理は先に進まない。

国交省 日本道路公団法13条に基づく処分だ。

(中略)

主宰者 国家公務員法の概念をもって整理するのは難しい。 13条の2項の適格性を欠いているということによる。

これは代理人の言っていることに無理がある。 国家公務員法に基づく処分ではない事項について、国家公務員法上の概念への当てはめを問うのはナンセンスだ。

藤井総裁聴聞やりとり詳報(3)より

代理人 本件処分が制裁として行われるなら、より慎重に手続きを進めるべきだ。 どういう性質の処分が行われるかをはっきりするべきだ。

国交省 行政手続法による手続き上の瑕疵(かし)にはならない。 藤井さんは総裁としての適格性に欠ける。 具体的にはケース・バイ・ケースでやると言うことだ。

これも国土交通省側に理がある論点(まあ、官僚が携わっている以上、手続上のミスはまず犯さないものだが。 なぜかについては、後に詳述)。 行政手続法上の整理としては、今回の解任のような名宛人に重大な影響を及ぼし得る不利益処分について聴聞を求めており、聴聞を行っている以上「慎重に手続きを進め」ていることになる(より軽い処分であれば、弁明の機会の付与という形式となる)。

よって、理由が妥当かどうかは別の話として、「行政手続法による手続き上の瑕疵にはならない」というのは全くそのとおり。

藤井総裁聴聞やりとり詳報(4)より

代理人 処分者である以上は、事実と証拠を示さなければならないはずだ。

主宰者 ここは裁判の場ではない。意見をうかがう場だ。

これもまた国土交通省側の方が正しい。 行政手続法の規定をよく見れば明らかだが、聴聞において行政庁に求められるのは相手の主張を聞くことだけだ。 それについてきちんと調書・報告書を作成し、そして可能な限り実際の処分に当たって明らかにされる理由において、聴聞の場で主張された事由について反論することが望ましいが、現場で逐一反論し、処分が妥当であることを証明する必要はない。

藤井総裁聴聞やりとり詳報(5)より

主宰者 日本道路公団に対する国民の信頼を著しく損ねる結果を生じさせたのは、総裁の対応ではなく、マスコミの報道だという認識か。

藤井総裁 それは私は言いません。 私が言えるのは、やり方がまずかったりしたことはあるかもしれない。だが、やれることはその都度精いっぱいやってきた。 道路局長、大臣には逐一報告している。 道路局の担当がそれを知らないのはおかしい。

代理人 藤井総裁はどのような対応をとるべきだったと行政庁(国土交通省)は考えているのか。

国交省 (財務諸表問題について)もっと早く調査に着手すべきだった。

藤井総裁 (国交省側に対し)あなたは道路公団(を所管する)窓口の道路局の責任者です。 7月中旬と言うが、その前に「調査したらどうか」とかの指示やサジェスチョンが一回もない。 行政官庁は威張るためじゃないですよ。 指導しなきゃいけない。

中身の話に入ると、一転して国土交通省側の言い分が苦しくなる。 国土交通省には日本道路公団に対する監督権があり、もし早く調査に着手すべきだったというのなら、藤井総裁の言うとおりそのときにそう指示すべきだったのだ。 それぐらい指示するまでもなくやっていると思った、という理由をつけることができなくはなかろうが、そうであっても確認すらしていなかった国土交通省側に落ち度がないとは言えず、何らかの懲戒に値するとしても解任するほどの理由かと問われると、相当怪しい。

代理人 (処分理由にある)必要時に(総裁に)連絡が取れなかったことがあったのか。

国交省 多くの場面で連絡が取れなかった。

藤井総裁 今の私にはセキュリティーが一番重要。 オフィスから出て車に乗るまで警官がガードしてくれる。 次官を辞めてからずっと続いている。 (警察からは)電車に乗るときはホームの端から5、6メートル後ろにいろだとか、階段を下りるときは特に危ない。 家に帰るルートを変えろ、理髪店を変えろと言われる。 「殺すぞ」というような電話がかかる。

これも、国土交通省側から「連絡を取れるようにしておけ」という指示をしてもなお連絡がつかなかったというのかどうか。 他の報道を見る限り、秘書経由で連絡は取れていたようであり、居場所などを逐一報告しなかったことをもって解任とするのは相当疑問だ。

藤井総裁聴聞やりとり詳報(6)より

代理人 次回の期日を指定してほしい。 期間を与えてほしい。

主宰者 証拠があれば(この場で)出してもらいたいし、意見があれば述べてほしい。

行政手続法の解釈論に戻り、再び国土交通省に軍配。 再度聴聞を行うとすれば、「主宰者は、聴聞の期日における審理の結果、なお聴聞を続行する必要があると認めるときは、さらに新たな期日を定めることができる(第22条第1項)」か、「行政庁は、聴聞の終結後に生じた事情にかんがみ必要があると認めるときは、主宰者に対し、前条第三項の規定により提出された報告書を返戻して聴聞の再開を命ずることができる(第25条前段)」のいずれかであるが(代理人が求めるように当日に次回を定める場合の根拠規定は前者)、どちらも主宰者や行政庁が「できる」もの、つまり不利益処分をする側の権利であり、不利益処分の名宛人(本件についていえば藤井総裁)の権利ではないからだ。

藤井総裁 公的な業務に携わる者が、恣意(しい)的であったり私的な行動を取ることの怖さを私は長年見てきた。 目を覆いたくなるような行動の人もいないわけじゃない。 私も権力を持っていたので常に自分を慎むよう努力してきた。 あなた(国交省職員)方は権力を持っているんだ。 その怖さをよく分かってほしい。

というわけで、国土交通省は手続についてはきちんとしている(ちなみに、各省庁が訴えられるような場合には、法務省の検事が訟務検事として各省庁の担当者をサポートしてくれる。 今回についても、当然国土交通省は訟務検事に相談しているであろうし、検事にすれば仮に訴訟に持ち込まれた場合に手続の不備で負けるようなことがあっては恥もいいところなので、中身は各省庁に委ねざるを得ないが、手続がきちんとしているかどうかは厳しくチェックする(で、もし各省庁の段階ですでに不備があったようなら、それを糊塗する理屈を一生懸命考えるわけだ(笑))ので、仮に行政訴訟を起こそうとする人がいれば、あまり手続の不備で争っても勝ち目はないことに留意されたい)が、中身については結構危ない橋を渡っており、藤井総裁から権力濫用と反論されてもやむを得まい。

自分が解任を正当化する理屈を考える部署にいなくてよかったとしみじみ思うが、仮に自分がその担当者だったとすると、今の国土交通省が主張するような理論武装はしない。 片桐四国支社調査役の行動をはじめ、部内運営に混乱を招いたという点に問題を絞り込んで、組織を適切に管理・運営する能力に欠けることのみを理由とするだろう。 そのための証言を公団職員から集める程度の苦労は、解任という無理筋を通そうとする以上厭うべきではない。 まあ、石原大臣の軽率なやり方への呪詛を5分おきに紡ぎながらではあろうが(笑)。

ちなみに今後についてだが、何度聴聞を繰り返したところで藤井総裁が納得するとも思えないので、打ち切るという判断は妥当。 とすれば問題は提起されるであろう訴訟の行方だが、まず最初に問題になる地位保全の仮処分については、裁判所もこの騒動に積極的に巻き込まれたいとは思っていないだろうから、受け入れられることはあるまい。 その時点で新総裁を発表できれば御の字だが、このどたばたを見て引き受けてくれる人がいるかどうか。

官僚OBなら引き受けるだろうが、小泉内閣の性質からしてその選択は採り得るはずもなく、また財界から選ばざるを得まい。 奥田日本経団連会長は財界からの選出に消極的なようだが、実は小泉内閣の財界とのつながりは、奇しくも本件の濫觴である今井氏をめぐる混乱以降はさらにその傾向が強くなっているが、日本経団連ではなく(構造改革マンセーな)経済同友会のライン。

三顧の礼だろうが三跪九叩頭だろうがいとわず、何とか財界から選んだ上で(石原大臣もこれぐらいはきちんとやれるだろうし、やれなきゃそれこそ解任モノの無能だ)新体制の下で民営化をどんどん進めてしまえば、藤井総裁が抗告訴訟で処分無効を求めても、判決が出るころには訴えの利益がないとして裁判所が退けてくれるだけの環境が整うであろうから、これもまた安心だ。

以上が確保できれば、石原大臣や安倍幹事長による名誉毀損は、官僚から見れば、役所という組織に無関係なことだから、勝とうが負けようが(で、多分負けるだろうが。 あのロス疑惑の三浦和義の名誉毀損をめぐる訴訟の勝率(8割!)を見れば、人の悪口を公に、それも単に時流に乗っかってのみ言うことのリスクはかなり大きいのだ)知ったことではない、というのが国土交通省の担当者の率直な感想なのだろう。

(2003-10-19記)

2003-10-26「総選挙2003特集・前編−自民党」

道路公団・藤井総裁をめぐる騒ぎも収まらぬうちに、「大勲位」(なんと1,300万円!)中曽根康弘の引退騒動と、最近総選挙へのマイナス材料がとまらない自民党。 どちらも石原国土交通相や大勲位の個人的問題にも写るが、実はこの両者、自民党の本質についてそれぞれ面白い材料を提供してくれる、組織的な現象である。

まずは石原大臣であるが、彼はかつて「政策新人類」の代表格の一人としてもてはやされた人間である。 石原大臣に限らず、政策新人類と括られる議員に共通するのが、実際に人を動かしていく力のなさである。 野党の人間は経験がないのだから情状酌量の余地もあるが、与党でそれでは救いがない。 今回の藤井総裁解任をめぐる不手際がその顕著な例であるが、これが彼ら全般に当てはまるのだ。

その理由として考えられるのが、まさに彼らの出世の端緒となった金融国会での成功体験。 本来何らかの政策を実現に導くということは、その政策がどんなに立派なものであれ、関係者の複雑な利害を粘り強く調整しながら汗をかくということ。 しかし金融国会では、金融恐慌を決して起こすまいという小渕総理(当時)の英断により、野党案をベースとすることを与党が丸呑みしたため、そうしたプロセスが大幅に省略された形で与野党の政策新人類により作られた政策パッケージが成案となった。

良くも悪くも自民党の伝統では、竹下登の「雑巾がけ」が代表的なエピソードだろうが、それなりの下積みを経て人情の機微に通じるようになってから表舞台に立つというのが王道であった。 他方で政策新人類は、本当は小渕総理が一段上の立場から譲っただけなのに、それを自分たちの実力と勘違いし、評論家のごとく偉そうな意見を言っていればそれが通るという、どう考えても金融国会という特殊な状況でしか成立し得ないやり方を政治家としての出世パターンとしてインプリンティングしてしまっているのだ。

若い世代がのし上がる過程で上の世代のやり方を否定するのはよくあることではあるが、官僚を否定するはずが官僚に頼りきらざるを得なくなった石原大臣の実例を見れば、政策新人類の方法論が取るに足らないものであるのは自明だろう。 つまり自民党は、よくいわれるように若い人間が表に出てこないという意味ではなく、昔のノウハウが失われつつあるにもかかわらずそれに替わる勝ちパターンを作り出し得ていないという意味で、世代交代に失敗しているのだ。

そしてそのよくいわれる方の世代交代の失敗の象徴となってしまった大勲位。 この騒動の大元はかつての橋本龍太郎総裁・加藤紘一幹事長コンビによる終身比例第一位の公約だが、そもそも総理経験者とはいえ、なんでそんな厄介な約束をしなければならないのか、というのが自民党の本質をあらわすもう一点。

自民党という政党は選挙区選挙を勝ち抜いてきた議員の連合体であり、各議員は高度な「自治権」を有しているため、党本部の統制力は「内政不干渉」なものにとどまっているのだ(ちなみに正反対の極にいるのは、想像に易いだろうが共産党)。 例えば今回話題の73歳定年制についても、あくまでその適用は比例代表選挙にのみ出馬する候補に限られ、小選挙区で出馬する議員は対象外(例:現在84歳ながら今回の選挙に出馬する相沢英之)。

選挙区選出議員から比例代表に転出するというのはこの自治権を放棄することであり、それこそ今回のように意に沿わない引退を強いられることにもなりかねないからこそ、中曽根は終身1位という身分保障を要求したのだ。

江藤隆美や持永和美の世襲に反対する造反候補の出馬を止められないため、3選挙区中2つが分裂選挙となる宮崎県に典型的に見られるように、こうした選挙区選出議員の独立性の尊重は組織にダイナミズムを生むが、共倒れのリスクが大きくなるのも事実。 そうした自民党にとっての長所が活き短所が出てこないのが、かつての中選挙区制だったのだが、小選挙区比例代表並立制の現行制度の下では、今後どう対応していくのかが見もの。 党本部の統制が強化されていくのか、それとも選挙区選出議員の独立した活動が自壊をもたらすのか。

以上の2つに以前とりあげた支持基盤の弱体化もあわせ、実は今自民党は、日本で一番激動のさなかにある政党であるといえよう。

(2003-10-26記)

2003-11-03「総選挙2003特集・中編−民主党」

自由党との合併を経て野党第一党との地位をより確実なものとし、どうやらメディアからは好意的に受け止められているように見受けられる民主党であるが、あえて独断すれば、今回の選挙では勝てないだろう。 そもそも全員当選など見込めようもない割りに単独過半数(241議席)の確保がきわめて怪しい程度の数しか候補者を出していないという問題もあるが、より根本的なのは、自民党との差異化が不十分であることだ。

自民党の最大の特徴は、前回書いたことでもあるが、独立した選挙区選出議員の連合体であり、したがって政策面では思われているほどいわゆる右でまとまっているわけではなく、個々の議員によっては左もおり、党全体としてみればやや右よりの中道が平均で、標準偏差が大きめの分布となっている。 こうした傾向は、民主党というどちらかというと左よりの政党と、自由党というどちらかというと右よりの政党が合併した、今の民主党にも見られる。

つまり、自民党の亜流でしかないのだ。 反官僚を合言葉に自民党との違いを訴えても、しょせんは程度の問題にしか有権者には受け止められない。 自民党は世襲議員が多く官僚と癒着していると言ったところで、民主党にだって世襲議員はいるし(というか、党首の息子である菅源太郎が公認候補というのは何か悪い冗談か?)、官僚OB議員だっているわけだ。 だからこそ、自民党に致命的なスキャンダルがあればともかく、そうでなければ自民党に対して勝ちようがない、というのがwebmasterの分析の根拠だ。

仮に将来、そうしたスキャンダルによって政権を奪ったところで、マニフェストがあのように実現する際の手続きなどをろくに考えていないようなものでは、選挙に勝った直後から混乱だらけで遠からず立ち行かなくなるのは目に見えている。 言いがかりではないことを示すため、1つだけ具体的にあげてみよう。 webmasterの身近なところで、官僚の天下りを禁止し、公務員人件費を縮減しますと題された官僚の天下り・人件費問題を例にとってみる。

官僚の天下りを禁止します。 民間企業への再就職しか対象になっていない規制を、平成17年度中をめどに、特殊法人などの政府関係法人等にまで拡大します。 また、政権任期中に、国際労働機関(ILO)勧告にもとづいて、一般の公務員に労働基本権を保障する一方、人事院機能の見直しや公正な人事評価システムの確立などをすすめ、国民に開かれた公務員制度とします。 同時に、局長以上のポストの民間等からの登用など政治のリーダーシップ確立と政策責任の明確化を実現します。 分権の推進や中央省庁の機能・役割の見直しにより、国家公務員の省庁間異動や定数削減、高級官僚の手当等の見直しなどを順次すすめ、4年以内に、国家公務員人件費総額を1割以上縮減する効率的な政府に改革し、さらに分権の推進等により効率化と縮減を図ります。

民主党政権公約/マニフェスト 2.2

良くも悪くも天下りという制度は、公務員の人事滞留(俗っぽく言えば「老害」といっても当たらずとも遠からず)を防ぐものであり、その結果として、公務員の人件費負担はその一部が政府から準政府(特殊法人など)や民間に移転することとなる。 とすれば、天下りを禁止すれば、(定年以前の離職はそのままだなんて組み合わせにしない限り)理の必然として人件費は増えざるを得ない。 労働基本権を認めればストライキだってあり得るため、これにより人件費が増えることこそあれ減ることはなかろう。 また、局長以上(ランク的には、局長=大企業の専務・常務クラスの役員、と考えてもらってよい)を民間から登用するとすれば、まともな人材を集めようとするなら民間並み給与が求められ、これまた人件費増加要因だ。

とすれば、人減らししか人件費を引き下げる手段はないが、既述のとおり天下りをやめれば放っておいても人は増えるのだ。 今40代後半から50代半ばで離職している人間を全員60歳なり65歳まで抱えるようになる中では、採用を完全停止したって絶対に4年で頭数が減るなんてことは、普通ではありえない。 普通じゃない手段でもやろうとするなら、現業部門があらかた独立行政法人化した中でそれほど大きな玉が残っているとも思えないが、とにかくどこかを政府から外に出すか、ストライキや解雇権濫用訴訟を覚悟で首を切りまくるしかないし、それらがたいした混乱もなくできるはずもない。

話を元に戻すと、そうした混乱があったときに、民主党が自民党と相当程度違う方向性を持ったものとして認識されていれば、どうせ同じようなことをやるのなら自民党でいいや、ということにはならず、自民党にはどうやったってできないのだから民主党で仕方がない、我慢しようということになるはずだ。 ではどこに自民党に押さえられていない票田があるのか。

それは、都市部だ。 高速道路をめぐる問題でも、対応策が「三位一体改革」と称されている地方財政問題にしても、郵政三事業、とりわけユニバーサルサービスをめぐる問題でも、その根底には都市と地方の対立という構造があるのだが、未だかつて都市の繁栄のためには地方をある程度切り捨てるのはやむを得ないと正面から訴えた政党はない(個人はいる。 石原慎太郎だ)。 石原都知事もそうだし、民主党関係者では埼玉の上田知事、神奈川の松沢知事、横浜の中田市長もそうだが、都市部では一般にやや右の受けがよいが、自由党亡き後自民党に代わる保守政党がない(まあ、保守新党ってのもあるにはあるが)ことも考え合わせれば、保守&都市重視というマーケティング戦略の成功率は高い。

もちろんその場合、地方での得票は大して見込めないが、ラフな試算では、東京で9割、南北関東・東海・近畿で8割、残りは2割の議席という計算でも選挙区で140程度(全体で300)、比例区で100超(全体で180)の議席が確保可能でありほぼ単独過半数に手が届くレベルであり、状況に応じて他の政党と連立を組めば与党になることは十分可能と言える(ついでに言えば、この戦略で一度政権をとってしまえば、あとは「一票の格差」解消を名目に都市部の議席配分を厚くすることにより、まず負けない体制が出来上がる)。

といいつつ、このアイデア、実はwebmasterのオリジナルではない。 某国の同名政党の集票パターンをまねただけである。 その某国の選挙で、その政党がどんな地域で勝ちどんな地域で負けたか、色を塗ってみるなどすると、都市部重視戦略(ただし、あちらはリベラルであり、本邦とは逆となるが)にもフィージビリティが感じられるのではないだろうか?

(2003-11-03記)

2003-11-09「総選挙2003特集・後編−結果」

メディアでは民主党の躍進という言葉が踊るだろうが、各政党を勝った順番に並べれば公明党、自民党、民主党(一応ここまでは勝利と言える。 2ちゃん風に言えば>>>>>越えられない壁>>>>>)、保守新党、共産党、社民党というのがwebmasterの見解。 与党対野党については、与党に軍配が上がろう。 とりあえず前回の予測が当たってwebmasterとしてはなによりである。

公明党は、低い投票率も手伝ってか3議席増加で34議席。 与党全体での議席数が少なくなった中で相対的な存在感を増し、キャスティングヴォートの威力を高めた。 リフレ政策に一番理解のある政党なので、連立与党の中でリフレ政策の実現に向けて努力してもらいたい。

自民党は237議席と単独過半数241を下回ったかにも見えるが、実際にはそれほど痛手をこうむったわけではない。 なぜなら、無所属で当選した11人のうち、秋田3区の御法川信英、山形3区の加藤紘一、静岡7区の城内実、兵庫9区の西村康稔、鳥取2区の川上義博、福岡11区の武田良太、熊本3区の坂本哲志、宮崎2区の江藤拓、宮崎3区の古川禎久の9人が自民党系無所属であり(田中真紀子も入れれば10人だが(笑))、これらの少なくとも過半は自民党に入党するか、無所属であっても自民党と連携した動きをすることが予想されるので、結局は自民党単独で事実上過半数である241を確保しているも同然だからだ(坂本はあの鈴木宗男と並び称された松岡利勝に逆らっての出馬であるが、松岡は比例で復活しているので今後の動きは予断を許さない、といったそれぞれの事情はいろいろとあるにはある)。 もう少し議席を減らして構造改革路線にお灸がすえられ、公明党が抜けたら連立政権崩壊となるぐらいがちょうどよかったと思うのだが。

民主党は177議席と40議席を増加させ、さらに比例区では自民党の69議席を上回る72議席を獲得したため、健闘したとはいえる。 が、「政権選択選挙」を掲げて戦った以上、政権獲得に失敗したどころか、与党に絶対安定多数のボーダーライン269を上回る275(先の自民党系無所属を加えれば284)もの議席を許したことは失敗と受け止めて真摯に反省すべし。 昔の社会党のように、野党第一党としての議席数増加を喜ぶような立場に甘んじたいのであればこんなことは申しませんが。

これ以下の3党はいずれも議席を半分以上失うという大敗を喫しているが、一番ましなのが保守新党。 党首が落選し辞任に追い込まれるような状態のどこがましか、との声が聞こえてきそうだが、これほど負ければ独自政党へのこだわりが消えるだろう。 自民党に吸収されるという将来像が現実味を帯びてきたことは、政党という法人格にとってはともかく個々の議員やその支持者にとっては、慶賀すべきであろう。

共産党社民党はどちらがより悲惨かという争いだが、喪失した議席数と、あの土井たか子が選挙区では負けたことを考えれば、社会党こそが今回の選挙における一番の負け組みということに異論はないだろう。 共産党は組織がある分だけ救われたのだろうが、いずれにしたって、どちらの党もいい加減に「護憲」「戦争反対」を唱えているだけでは社会から遊離するだけという現実を見つめた方がいい。 又吉イエスのように、2ちゃんねるでのみ妙な注目のされかたをするような存在になりたいというなら話は別だが。

最後に与党対野党については、民主党のところで書いたが、絶対安定多数を確保している以上与党の勝利。 民主党が議席を増やしたといってみたところで、他の野党が大幅に議席を減らしたこともあり、5回コールド負けが7回コールド負けになった程度の話だ。 真に政権奪取を目指すのであれば、民主党はあと1年足らずで訪れる参議院議員選挙に向けて大胆な戦略の見直しが迫られよう。 投票率が高かったらって言ったところで、投票率が上がるような魅力的な選挙を演出できなかったことだって反省すべき事項の1つなのだから。

(2003-11-09記)

保守新党は予言どおり自民党に合流するは(さすがに月曜日とは思ってなかったが)、社民党の土井党首は辞任するはと、選挙の結果を受けいろいろな動きがある中で、さまざまな意見や分析を目にし、それぞれにうなづく点も数多くあったが、出色のものを一つ紹介させていただこう。 Irregular Expressionである。 2ちゃんねるで結構コピペされているので目にした人も多いと思うが、比例の得票数についての分析は見事。 前回の総選挙があの森政権下で今回はそこからのゆり戻しがあったことなど、重箱の隅をつつけないわけではないが、ここでの指摘には本当に目から鱗が落ちる思いであった。

(2003-11-16記)

2003-11-16「イラク撤退へのスケジュール」

11月15日、イラクの暫定占領当局(CPA, Coalition Provisional Authority)とイラク統治評議会(IGC, Iraqi Governing Council)との間で、来年6月末での占領終了を含む今後のスケジュールが合意された。 アメリカ兵の死者が増加する中で、来年の大統領選もにらんでの決断だろうが、これは明らかに占領統治の失敗を示すものだ。

治安維持がキーポイントということはわかりきっていたのに、自軍で完遂もできなければ各国の協調体制を確立もできずという、予想はしていたが当たって欲しくなかった結果に陥ったのだ。 多分深読みする解説がいくつもでてくるだろうが(例えばネオコンが軍需産業と結託してわざと混乱を長引かせているのだ、といったもの)、単に失敗しただけというのがwebmasterの予想。 ブラックホーク・ダウンで有名となったクリントン政権時代のソマリアでの失敗が最近の例だが、とことんアメリカという国は占領統治が下手で、日本でのGHQのような成功例の方がよほど稀だ。

それは戦後に意志の集中が続かず腰が引けてしまうことが原因なのだろうが、モンロー主義に象徴的なアメリカの孤立主義指向の悪いところ。 とことん孤立してくれるならまだしも、引っ掻き回すだけ引っ掻き回してから、というのがたちが悪い。

こうなった以上、自衛隊派遣も当面は見合わせるべきであり、アメリカと違って中東が混乱したら本当に困るEU諸国などとの、新たな枠組みの模索を先行させねばなるまい。 アメリカは自衛隊が付き合っているからといって自国の撤退を遠慮する国ではないし、中東の石油がなくてもやっていける国だからだ。 イラク国民にとっては不幸なことだと思うが、イラク国民のために日本が献身的になる義務などないわけだし。

今回は本件に関し、読者からのメールを紹介しよう。

私は、はっきり言って戦争が嫌いです。 昔の人で「良い戦争、悪い戦争などあったためしがない」と言った人がいましたが・・・まったくその通りだと思います。 良い戦争なんてあってたまるかと思います。 戦争が起きて、勝った国であろうと(←負けた国なら尚更)人が一人も死なない戦争なんて聞いたことがありません。 そして、往々にして死ぬのは偉い人じゃない。 (←webmasterさんに対しての言葉ではありませんので・・・ごめんなさい。) いつもいつも、戦争で死ぬのは、戦争で悲しむのは、本当のことを何も知らない一般の人たちです。 私は、現在自衛隊の派遣がどうのこうの言っている人たちの目の前で叫んでもいいです。 「お前が行けっっ!!」と。 攻撃に荷担しなくても戦場に行けば、死は隣にあるかもしれないのです。 日本の自衛隊の人であろうと、アメリカやイギリスやイラクの軍陣であろうと、みんな待っている人がいるのです。 家族にとってはその人が何をしようと大切な人であることに違いはないのです。 そんなことは考えないのでしょうか? 私は、看護師として、命が生きるために戦う現場にいる人間として、死に向かって行くような戦争という行為が赦せません。

そもそも。 核兵器を作るなと他国にいうなら・・・世界中の誰もが核兵器を棄ててしまうという考えはないのでしょうか? そんなもの無くても人間は幸せになれます。 いつもいつも、他の国の顔色をうかがう日本の官僚が私はバカバカしくてたまりません。 大体、1番を決めてどうするんでしょう? みんなでお互いを高めあっていくような気持ちはないのでしょうか? このまま戦争を続けたら、このまま競い合うだけなら、このまま顔色を窺うことをやめなければ・・・きっと世界は悲しい結末しかみないのではないかと私は思います。

言いたいことはわかるが、1つだけ答えさせていただこう。

それは、戦争の開始には大いなる矛盾があるということ。 歴史上、チェンバレンらの宥和政策がヒトラーを増長させ第二次世界大戦を招いたことは有名であるし、また、今のイラク情勢の淵源となった湾岸戦争にしても、アメリカ大使がフセインのクウェート侵攻を許容するかのごとき言動をしたことが引き金となった。 今のイラクにしても、アメリカが戦後も緊張感を緩めず本気で残敵掃討にあたっていれば、少しにましになっていたはずで、中途半端に手を緩めた結果、事態は悪化の一途をたどることになってしまった。 つまり、戦争をしないと相手に思われることは、戦争につながる危険性を大いに高めることになるので、戦争をしようと決意すればするほどかえって戦争が抑止できるという逆説が成り立つ。

他方で、戦争をするとの気分を高めすぎてしまうと、本当は戦争をすべきでないにもかかわらずブレーキが効かなくなるのもまた事実(戦前の日本がまさにこれだ)。 どんなシチュエーションであれど戦争などしない方がいいのは当然であるが、そのためには戦争をするともしないとも決めてはいけないとしか言えない。 戦争が嫌いというのはもっともだと思うが、本当に戦争を回避したければ、戦争反対と凝り固まるのは得策でない。

webmasterが言うのもなんだが、当サイトを読んでいる人であれば、わかっていただけるのではないか。

(2003-11-16記)

2003-11-24「三題噺−自民党税調、日テレ、東浩紀」

霞が関官僚日記11月15日付けの文章に関して、flapjack氏と議論させてもらった。 それを踏まえたflapjack氏の見解が、flapjackbookmarkにて公にされた。 これらに対する直接の答えではないのだが、最近のできごととからめつつ、思うところを綴りたい。

flapjack氏のような人と議論できるのは幸せなことだが、一つだけwebmasterの言うことを誤解しているふしがある。 webmasterは、国民の政治意識が低いことは悪いことだと考えていないのだ。

人が何かに興味を持つとして、それはその何かが好きなのか、事情があって興味を持たざるを得ないのかのいずれかだが、これほど世に「サーカス」があふれていれば政治が好きでなくても当然だし、好きでもないのに「パン」に困って政治に興味を持たざるを得ないのは不幸なことだ。 古の世であっても鼓腹撃壌は理想郷のひとつであったというのに、それが実現したからといって壊しにかかるべきではあるまい。。 普通の人であれば、自分の仕事や趣味のこと、好きな人や家族のことに関心を持つのが真っ当であり、そうしたことを二の次として政治向きの話題を生活の中心に据えているとすれば何か生き方を間違えているのだとwebmasterは考える。 2ちゃんねる風の言い方をすれば、プロ市民は逝ってよしということ。

政治と一口に言っても、その取り扱うテーマは極めて多岐にわたるし、一つ一つ取り上げればそれぞれが一生を費やして取り組むような複雑な問題だらけ。 官僚として、世に言う「政治」の一端に携わることで口を糊しているwebmasterであっても、自分の担当外についてはよくわからないことばかりだし、それを他の職業で活躍することにより世に貢献している人々がわからないことを責める気には到底なれない。 この傾向は、経済が発展し社会に流通する情報量が増加していく中で強化されることはあっても、その逆はあり得なかろうし、また、豊かになった各人がそれなりの発言をしたがる以上、百家争鳴の状況は混沌の度合いを増すばかりだろう。 立花隆がスノーの発言を引いて文系と理系の隔絶に警鐘を鳴らして久しいが、彼の努力とてしょせんは蟷螂の斧である(というか、立花隆自身、理系分野のテーマについては理解が怪しいと指摘されているわけだし)。 もはや、物事をよくわかったエリートの連帯感に基づく政治判断という理想像は、現実から遊離したものとしか言いようがない。

したがって、何らかの政策テーマがあるときに、その内容をできるだけ正確に伝えて判断を仰ぐということが望ましい、逆に言えばそうしたコミュニケーションがきちんとできればわかってもらえるというのは、そのテーマに携わる人間のエゴでしかない。 人々の政治に関する判断は、自分の専門分野であればともかく、その他の分野については政策そのものを見て行われるものではなく政治家を選ぶという形でしか行い得ない、つまりは政策を見たって判断不能なことについては、それを主張している人間を支持するかどうかでしか決めようがないからだ。

この点は、ある意味現代民主主義の前提となっている代議制民主主義が十分に機能しているともいえるのだが、古典的な意味での代議制民主主義とは変質しているのもまた事実。 何らかのコミュニティにおいて常日頃接する中で信頼できるか否かを見極めていくというのが古典的な代議制民主主義のありようだが、その手のコミュニティが崩壊過程にある以上、異なる手段でその手の信頼を勝ち得ることができた人間こそが、今の日本において人々の支持を集めることとなっているのだ。

小泉総理の支持率がなんだかんだいっても高止まりしているのは、今の政治家の中では小泉総理がこの点を一番きちんとおさえているから。 webmasterが総理用の資料を作成する際にも、いかに短くわかりやすいものとするかについて、官邸の事務方からくどいほど念を押される。 そうした小泉総理の手法は「ワンフレーズ・ポリティックス」などと揶揄されることも多いが、負け犬の遠吠えに過ぎない。 商品が売れないときに良さがわからない消費者が馬鹿だといっても始まらないように、小泉のよりも自分のほうが中身のあることを言っていると誇ってみたところで、良さを伝えられなかった側の負けである。

その象徴が、総選挙後に自民党税調のインナーが廃止されたことである。 インナーの象徴であった山中貞則が官僚や租税法学者、経済学者を含めてもなお日本で指折りの税制の権威であることは事実であるし、先のリンク先に張られてあるリンクに詳しいが、インナーを核とする自民党税調における政策決定はそれなりに合理的であったにもかかわらず、老害・密室とのイメージを覆せず幕を閉じることとなった。 密室というなら小泉総理の政治決断のほうがよほど密室なのだが(笑)。

こうした実態について、インテリ層が違和感を感じていることがまざまざと現れたのが、日本テレビの視聴率操作をめぐる騒動である。 テレビ局はあくまで私企業であり利潤追求が目的であって当然だが、スポンサーが視聴率をベースに広告料を決定している一方で、視聴率調査がビデオリサーチの独占事業でサンプルも少ないとなれば、こうした事件が今まで起こらなかったことの方が不思議だ。 今回の騒動について最も責められるべきは、日テレよりもむしろそんなあやふやな視聴率に基づき広告料を支払ってきたスポンサー。 財界が共同出資して視聴率会社を複数作るなどしていれば、こうした事件は起きようがないし、広告料の水準もより適正に決定可能だったということに過ぎないのだ。 それを倫理がなってないとか、志がどうのこうのとかいうのはメディアを過大評価しているとしかいいようがない。

なぜなら、そうした損得勘定とは違う何かに頼ったところで、ほころびが生じるのは不可避だからだ。 東浩紀のブログが頓挫したのは、そうしたメディア幻想がまさに幻想であることのひとつの証拠。 東浩紀が匙を投げるにいたる一連のコメントを見ると、それなりのレベルの人間が活発に議論をすることが結論の妥当性を裏打ちするものではないことがはっきりわかるだろう。 オルテガ以来の、大衆化の流れに対する社会エリートの抵抗の試みのひとつとして、ネットを通じた有識者の連帯が持ち上げられたこともあったが、結局は有効なオルタナティブ足り得てはいない。 世に何事かを訴えるのであれば、適切には伝えないメディアやわかってくれない大衆は所与の条件として戦略を考えるべきであり、エリートがメディアを通じたコミュニケーションで妥当な結論を導き出すというエデンの園を希求したところで仕方がないのだ。

(2003-11-24記)

2003-12-04「奥克彦参事官、井ノ上正盛三等書記官とジョルジース・スレイマーン・ズラ運転手の死亡」

以下のようなテキストを公表していいものか、webmasterも随分迷った。 しかし、「ひるんじゃいけない、テロに屈することなく戦い続けることが故人の遺志にかなう」とする見解と、「自衛隊の派遣は火に油を注ぎかねず、自衛隊派遣以外の復興支援を行うべき」とする見解の単純な二項対立に世の議論が収斂しつつある今、あえて第三の意見を明らかにしたくてしかたがない。 天の邪鬼だと自覚はするが、これも性分、語らせてもらおう。

まず前者、日本では今や年間100万人が死んでいる。 そのうちのたった2人(ズラ運転手を除くのは本意ではないが、ベースをあわせた)の死亡に政策判断が引きずられるいわれはない。 以前書いたとおり、来年6月にイラク人政権への統治権の移行と米軍のプレゼンス縮小が予定されている。 そんな中で派兵する場合、いかなる条件が達成されれば撤退するのかを定めるのは極めて困難だ。 治安回復すれば、なんて条件ではいつになったら撤退できるのか知れたものではないし、そもそもテロ掃討活動を行う国民的合意が得られるわけもないなかで、自らイニシアティブをとることもできず、治安がどうしようもなく悪化したから撤退という最悪の結果に至るリスクは無視できない。 幾万の英霊に申し訳が立たないから支那撤兵はできないと主張した東條英機じゃあるまいし、いちいち外国での「戦死」に感情的に引きずられて政策判断に臨むことが如何に愚かであるか、そのぐらいは歴史に学んだ方がいい。

他方で後者、ここまで派兵すべきと小泉総理が主張し続けたにもかかわらず、日本人が死んだ後に派兵をとりやめることがどれほど危険なことかわかっての主張なのか。 時系列がそうである以上、日本がどのような説明をしようと、日本人の死亡と派兵中止の間に因果関係があると見られることは避けがたい。 とすれば、今後日本がPKO(Peacekeeping Operation)などで派兵を検討する場合、それを阻止しようとする勢力があれば、とにかく日本人を殺そうとするはずだ。 つまり、自衛隊派遣中止という選択肢は時機を失してしまったと言わざるを得ない。

じゃあどうすればよいのか。 消去法的選択ではあるが、イラク人政権の発足を理由として、アメリカが引っ込むときに撤退することが一番ましだというのがwebmasterの結論。 たった半年何をしに出て行くというのか、アメリカに大して感謝してもらえるわけもなく、格好の付かないこと甚だしいがやむを得ない。 こうした派兵であれば、条件は極めてクリアであり駐屯が泥沼化するおそれは少ない。 相当治安が悪化し、イラク人への政権委譲が危ぶまれるような事態になったところで、そこはアメリカが押しつけるはず(そうでなければ彼ら自身プレゼンス縮小の大義名分がたたない)。 そんな段階で見捨てられるイラク人の不幸は察するに余りあるが致し方ない。

その後の日本の戦略としては、アメリカも中東に出て行く気が失せているであろうからそれほど心配する必要はないのかもしれないが、アメリカの関心をできるだけ北朝鮮に惹きつけていくのがベター。 悪の枢軸という言葉は最近はそれほど使われておらず、ブッシュ自身どこまで覚えているか知らないが、仮に安全保障マターでアメリカの関心が国外に向く場合、それがイランとはならないよう誘導するにしくはなく、イラク以外の悪の枢軸からイランを除けば、残るは北朝鮮ということになるからだ。

なぜイランとアメリカが事を構えると困るのかって? 幸いにしてイラクはペルシャ湾の最奥部にあり、混乱が生じてもサウジアラビアやアラブ首長国連邦からの石油輸入が途絶えるリスクは低いが、アメリカが仮にイランにちょっかいを出した場合、イランがホルムズ海峡を扼する以上、そのリスクが格段に高まるからである。

(2003-12-04記)

2003-12-11「反戦運動の凋落」

12月9日、いろいろと物議を醸したイラクへの自衛隊派遣に決着がついた。 イラク特別措置法に係る基本計画が決定され、1年間、自衛隊が駐屯することとなった。 前回指摘したように−もっとメジャーなサイトの意見を借りるなら、溜池通信の不規則発言中12月9日及び12月10日のテキスト(しばらく経つと該当部分はバックナンバーに移動するはず)を参照−、出す以上は引っ込めるタイミングが極めて重要であるにもかかわらず、1年後という何のイベントも予定されていない時期に本当に帰ってこれるのかという懸念はあるが、従来のPKOと異なりそれなりの武装を許容するなど、一応の評価はできよう。

対照的に悲惨な境遇に陥っているのが、いわゆる反戦運動だ。 危険だから出すなって、民間人よりも自衛隊の方が危機的状況に対応する能力があるのに議論が逆立ちしているし、武装して行けばかえって狙われるって、あの赤十字であってもテロにあっているし(宗教的理由はあるが)、果ては恋人がイラクに行くのがいやだって、それは二人の間で意思疎通がうまくいっていないだけの問題だろう(笑)。 当サイトを見れば、webmasterが反戦運動に対しては基本的に冷笑的であることはよくわかると思うが、まっとうな反戦主義の存在は有益であるとも確信しているため、彼らが今後どのような方向を目指すべきか、一本の蜘蛛の糸を垂らしてみたい。

まず、反戦運動を志す人間が真っ先に理解しておかなければいけないことは、自らの立ち位置である。 本来反戦運動とは、圧倒的な存在である安全保障のリアリズムに対する道化役に過ぎない。 ここで言う道化役とは、シェイクスピアのリア王の道化に見られる本来の意味でのそれで、安全保障のリアリズムが現実を覆っていることを前提として、そのリアリズムが自己目的化したり暴走したりすることのないよう、意図的に茶々を入れることを許された存在ということだ。

日本以外の世界の国々ではこの点は自明であって、例えば世界的に最も有名な反戦主義の表明はラッセル=アインシュタイン宣言だろうが、これを実現化しようと考えた政府などこれまでもないし、これからもないだろう。 ラッセル=アインシュタイン宣言の署名者を見ればわかるとおり、得てしてこの手の理想主義はインテリに特有のものであるが、日本以外の国におけるインテリ層は、大衆からの自らの遊離についてもっと自覚的だ(話がそれるが、ディープな知識を有する人間がそうでない集団から遊離することについて、日本で一番自覚的なのはオタクたちだろう。 当サイトでプッシュしているリフレ政策についても、それを主導する経済学者は尊敬に値すると考えはすれど、この点についての自覚に欠けていること(自覚している人であっても、遊離の埋め方には相対的に無頓着と思えること)に問題はないのかと苦言を呈したい気がないわけではない。 以上脱線終わり)。

他方で日本では、この手の理想主義が現実から遊離しているとは受け止められずについ最近まで継続し、最近になってその幻想が剥がれてきたからこそ、急激に反戦運動が凋落しているのだ。 その原因を探れば、アメリカの存在が大きい。 冷戦下(特に中国における共産革命後)において日本がアメリカにとって地政学的に不可欠となり、安保条約と在日米軍は日本の強い決意がなくても存続する所与の存在となっていたため(日本だけで旧ソ連の極東軍に対抗し得るだけの軍備をしようとしていれば、どれだけの決意とコストが必要であったことか)、安全保障のリアリズムを国内で自力で実現化させる必要がなく、理想と戯れることが許されていたのだ。

その典型例を出すとすれば、やはり長沼ナイキ訴訟判決であろう。 軍隊の保有は憲法上認められないが自衛権は存在し、ではどうやって自衛権を行使するかといえば警察力や群民蜂起も考えられる・・・などという正気の沙汰とは思えない議論が行われ、ある種の人々には褒めそやされていた時代だったのだ。

また、この判決にも明らかだが、軍の暴走をコントロールしなければというごく当たり前の要請が、なぜか適切なシビリアンコントロールの枠組みの整備が必要といったまっとうな議論ではなく、軍隊という存在自体の否定につながっていたという反軍主義も日本に特有であった(これについては、軍事費は少なければ少ないほどいいことから、意図的にアメリカに依存する安全保障体制を選択したリアリズムが、反軍主義の存在をありがたがったという側面もあるが)。

しかしこれらは、冷戦の崩壊により終わりを告げた。 一番大きいのは、アメリカにとって日本が極めて重要ではあっても不可欠ではなくなったこと。 冷戦下では安保条約廃棄や在日米軍撤退をアメリカが選択する可能性はなかったが、ポスト冷戦時代には、極めて低くはあるがその可能性は否定できない。

また、既述のとおりリアリズムを体現していたのがアメリカだったが故に、反戦主義は反米主義へとつながり、ひいては東側世界との親和性が高かったが、東側諸国の体制が次々に崩壊し共産主義幻想が剥落していく中で、反戦主義の存立基盤、要すれば社会党や朝日新聞がその代表格であるインテリの親左翼傾向だが、これの大衆的基盤が失われてしまった。 軍事バランスを見ても、旧ソ連の軍備が衰えたことにより、対ソ連が最優先であった中国の軍事力に相対的余裕が生まれ(もちろんかの国の経済発展によるところも大である)ると同時に、北朝鮮に対する縛りが緩くなり、先のアメリカの姿勢の変化とあいまって、日本の安全保障体制を整備するためには日本自身の努力がより必要とされる環境となってきている。

それでも反戦主義の担い手が、先の遊離にもっと自覚的であれば、こうした変化に応じて反戦主義を進化させられたかもしれない。 しかし実態は、いつまでたっても正義と大衆の支持は我にありといわんばかりの姿勢であり、そうした変化は望むべくもなく、当然の結果として見る影もなくなってきているのが現状だ。 2ちゃんねるに「嫌韓」「反サヨ」などのロマン主義が流れ込んできてつまらなくなったって嘆いたところで、それ以前のアイロニカルなコミュニケーション・スタイルだってインテリの中でのある意味スノビッシュなポーズに過ぎないわけで、つまりはレベルが下がったのではなく(無論上がったわけでもないが)、その場のいわばお約束が入れ替わっただけというのが実態。 それをさもレベルが下がったかのように嘆く心性の根底には、2ちゃんねらーに対する自分を相対化できていないとの指摘がそのまま当てはまる、自己を相対化できずに「昔はよかった」的な正当化を行っている価値観があるわけで、そこを本能的に見透かされているから2ちゃんではあなたのことを弁護する人間がろくにいないってこと、わかってます、ねぇ、北田さん

以上を冷静に受け止め、どうすればいいのかを真摯に考えれば、必ずや反戦主義の復権はあり得るはず。 反反戦主義の立場から道化を欲するが故のアドバイス、少しでも活かしてもらえれば幸いである。

(2003-12-11記)

2003-12-17「層状の共同体」

今回のテキストは、「三題噺−自民党税調、日テレ、東浩紀」の議論の発展であり、flapjackbookmarkにおける12月11日12日の議論に対する直接のwebmasterの見解表明で、そのバックグラウンドには同サイトの11月29日12月2日のテキストの存在があるので、以上を一読されることをまずお薦めしておく(webmaster注:経緯についてhotsumaのURLメモ。12月14日にてまとめて頂きました。 ありがとうございます)。

さらに前提を付け加えておくと、この議論は真実は何か、どちらが間違っているのかといったものではなく、論者のそれぞれがどのような側面を重視し、それに対してどう自らが対応していくのかという姿勢の表明である(The truth is in the eye of the beholder!)。 社会を、メディアをどう観察するかと言うことは、それらに対して自らがどうコミットしていくのかと密接不可分なのだ。 前置きはこのぐらいにして、早速本題に入りたい。

まず最初に大前提とすべきは、人間というのは弱い存在であるということ。 アリストテレスが人間をanima politikosと喝破して久しいが、大脳新皮質が異常に発達した結果、ヒトという種はアイデンティティを自ら認識する必要を抱え込んでしまっており、その手段としては他人の自分に対する反応を見るというのが一番オーソドックスである。

中にはデカルトのようにいろいろ疑い抜いた上で、このように考え疑っている自分の存在だけは否定できないから「我思う故に我在り」というアイデンティティに至る奇特な人間もいるわけだが、普通の人間にとってはそんな根気のいる作業を望むべくもなく、もっとお手軽なやり方に因らざるを得ない。 具体的には、例えば日本人である、男性であるといった生まれながらの属性、東京大学卒、国家公務員といった所属する組織、その他趣味や嗜好、人生経験など様々な集合が社会には存在しているのだが、それら無数の集合が重なり合う一点に自らのアイデンティティを見出し、それらの集合において期待される行動を取ることにより、他人からその集合に属することを断続的に承認され、そのアイデンティティを再帰的に強化しているのだ。

具体例を挙げれば、デモに参加する→立派な活動家、彼氏(彼女)に尽くす→素敵な恋人、苦しい練習に打ち込む→模範的な運動部員、などなど。 どうしてそのような特定の行動に対する期待が成立するかを考えれば、相互に予測可能性が高まれば、アイデンティティを維持するコストが低くなるから。 いちいち突飛な行動をして理詰めでその是非を考えるより、お約束に則った行動をしておけば時間も労力もかからないではないか。

このお約束及びそれにより導かれる行動が、マックス・ヴェーバーの言うところのいわゆるエートスである。 webmasterの認識では、このエートスを同じくする集団(=上記で言う「集合」)が共同体である(その定義ではゲゼルシャフトとゲマインシャフトが混同されるではないかとの指摘もあろうが、一段メタなレベルでの議論と考えてもらいたい)。

この共同体、エートスの承継により自己実現・再生産されていくわけだが、従来もっとも強固であったのは交通手段と情報交換手段の制約から必然的に地縁・血縁に基づくもの。 日本の場合、かつては地縁と血縁の乖離が少ないこともあり、基本的には地域限定のものが主流であったし、その揺らぎも少なかった−なぜなら、従来の地域の縛りにはその他の上記の無数の集合を束ねる効果があったからだ。 学校も一緒、放課後の遊びも一緒、働く場所も近所、「村十分」も助け合いであるからして。 このように複数の共同体が層状に折り重なって、事実上一つの共同体であるかのように見えるものが、webmasterflapjackらの議論で提示したコミュニティのイメージである。

しかし、日本に関して言えば20世紀に入って以降幾何級数的に交通機関と情報通信が発達したことからこうしたコミュニティの解体が進み、高度経済成長に伴う大規模な農村部から都市部への人口移動によって決定的といえる打撃を受けた。 地域のつきあいも薄く職場はまちまち、出身地も違う(これは用いる言葉=方言の違いにもつながる)人々にとっては、無数の集合=共同体が発散していく一方で新たなコミュニティの核が見つからぬまま漂っているのだ。 極端な例を出せば、東京でサラリーマンをしているA氏が、仕事の後は行きつけの飲み屋で他の常連客とくだを巻き、帰ってからはいくつか掲示板を見て書き込みをし、休みには同人誌の仲間とコミケの準備をし、夏休みと正月には帰省して久しぶりに家族や同窓の旧友と会うなんて場合、それぞれの共同体の構成員は全く重なることがないなんてことだってあり得、それがそれほど珍しいとは言えないのが現代という時代だ。 特定の共同体に入れ込んだり、逆にすべての共同体を否定したりといった、行動としては正反対に映る人間関係不全も、そうした不安定さに耐え難いという同一の根から咲いた花と言えよう(前者の典型押しかけ厨と後者の典型引きこもりが、いずれも傷つきたくない過剰な自己愛で説明できるケースがあることなど)。

話を多少脱線させ、上記のflapjackのサイトで問題提起をした創価学会について触れると、この人口移動期に寄る辺を失った新たな都市住民につながりを与えたことが、その急成長の要因であろう。 池田大作という稀代のオーガナイザーが高度経済成長期にトップの座にいたという歴史の巡り合わせ(池田が会長となったのは昭和33年)の成せる業である。

さらに脱線させると、一昔前のいわゆるトレンディドラマの興隆も、こうしたつながりを求める心情が恋愛に傾斜していった結果であろう。 古典的な恋愛ドラマ、ロミオとジュリエットでも曽根崎心中でも何でもいいのだが、それらが共同体のエートスと恋愛感情の軋轢に物語性を求めているのに対して、80年代以降の恋愛ドラマにとってこの手の物語性はリアリティを失ってしまっている。 そうしたものを仮に用いるとすればパロディでしかあり得ず、お互いの感情のすれ違いに代表される個々人の問題に焦点を当てているのは、そうしたポスト高度経済成長期の都市住民の一断面をこれ以上なくクリアに表していると言えよう。

閑話休題、かくてコミュニティが解体した後の、発散せる無数の集合=共同体の織りなす社会の特徴は、一つには身近な権威の失墜であり、一つには人間同士のつながりの移ろいやすさである。 前者については、flapjackの12月11日のテキストに対するkmiuraのコメント(下から5つめ)における次の記述が「身近な権威」の典型である。

私は地元でインテリとして遇されるんだけど、自慢ではなくてこの場合のインテリって、日本でいうザ・インテリから比べたら相当レベル低い話です。 たとえば科学関連のニュースの解説を求められる。 あるいは、うちの女房がこの間医者にこれこれの診断をうけてこんな薬もらっているけどどんなもんなの、とか。 あるいは地球温暖化についてどう考えたらいいのか解説しろ。 あるいは料理人のスープの取り方と、生化学でのアミノ酸抽出を比較したりする。 果てはクラブでVJするのにお前の持ってる顕微鏡画像使わせろといってくる。 そんなわけで話題は複雑多岐にわたるけれど、私のなけなしの情報でもその場の理解度が上がってなんとなく納得するわけです。

こうした身近な権威はあくまで地域という縛りの中で、情報の流通量が限られているからこそ成立し得る。 人が属する複数の共同体の重なり合う部分が少なくなれば、それぞれのテーマについて最も頼りになる存在は分散し、何か難しい話題が出たときに「とりあえずこの人に聞いておこう」という対象が少数に絞られなくなる。 もっと割り切るなら、人に聞かずともググって終わりだ。

後者については、一昔前であれば地域という共同体からの離脱は同時にコミュニティからの離脱とほぼ同義であり、不可避的に他の共同体からも離脱を強いられ、公私にわたる人間関係の断絶につながっていたためそのコストは極めて高く、少々いやなことがあってもその中に居続ける選択が合理的であった。 だが共同体の重複性が少なくなった今、ある共同体からの離脱の他の共同体に及ぼす影響が小さい場合が増えている。 例えば隣の住人が気にくわないからといって引っ越したところで職場は変わらずチャットの相手も変わらず、といった具合。 複数の共同体のそれぞれについて、たやすく離脱して限定的に人間関係を断ち切ることが容易になってきているのだ。

これらの帰結として、webmasterflapjackやkmiuraが図らんとするコミュニティの再構築、そしてそのコミュニティの指導的立場の人間に対してまんべんなく一定レベル以上のものの見方・考え方を提供するというクオリティペーパーの働きについて悲観的に見ているわけである。 確かにそうしたコミュニティがあれば、指導者層が主導して一定の方向性を与え、それについて疑問がないわけではない成員も、他にこれといった代替策が思いつくわけでなし、参加しないことによる「村八分」のコストがあまりにも高いため、指導者層に従うという政策形成が可能であろうが、それは既に(少なくとも日本では)成立し得ない時代を迎えている。

その代替物としての政策形成のあり方としてwebmasterが考えているのが、テーマや時間を区切った上で、参加者が主体的に参加しているという実感を得られるようなオペレーション。 けだし、最近の成功したボトムアップの運動は大概がこのパターンにはまっている。 薬害エイズ問題しかり、UDがん研究プロジェクトしかり、linuxもある意味そうだし、何より大カトーよろしく「故に構造改革はなされるべきである」で全てを片づける小泉総理が典型例だ。 だからこそ、webmasterは例えばリフレ政策についても、その学問の世界での勝負と同等以上にそれをどのような形で広めていくかにもこだわるわけであり(もちろん好きでやっている部分が一番大きいのだが)、抽象的な意味での啓蒙活動には興味がない。

東浩紀のブログについてのwebmasterの見解について2ちゃんでは東個人の事情を一般論化しているのがアフォなどと評されもしたが、それはサロン的な交流を通じてのコンセンサス形成に対してネガティブな以上のような理屈があってのことであるし、flapjack(12月2日)windvalley(11月29日)によるwebmasterの立ち位置に関する疑問に対しても、このテキストで多少なりとも答えられたのではないかと思う。

(2003-12-17記)

2003-12-24「2003年『社会面的』10大ニュース」

第10位 マイケル・ジャクソン逮捕

彼がペドフィリアなのは広く知られていたわけで、いつかはこうなることは十分に予想できたわけだが、予想を超えていたのが彼の顔。 かねてから整形の後遺症による顔面崩壊がささやかれてはいたが、あれならノーメイクでホラー映画の主演が張れる。 webmasterの人生の中であれに匹敵するインパクトを受けた顔は、バイク事故後のビートたけしだけだ。

第9位 又吉イエス、2ちゃんねるで大ブレイク

個人的趣味に基づく選出(笑)。 来年の参議院選挙にも出馬予定とのことであり、あの素っ頓狂なポスター、街頭演説がまた聞けるかと思うと今から楽しみである。 しかし、最近はこうした泡沫候補が少なくなり、選挙の楽しみの一つが失われているのが残念。 無責任な意見ではあるが、供託金制度による候補乱立の防止はそれほど社会的に意味のあることなのだろうかと言いたい。

第8位 加藤あいの温泉盗撮動画流出

芸能人の盗撮自体はBUBKAなどのそれ系専門誌や写真週刊誌などで取り上げられることも多いが、週刊現代という一般紙において大々的に掲載され、Winnyで出回るとともに急速に下火になったという展開が目を引いた。 一昔前であれば、この手の写真やビデオが出たところでメジャーな流通には乗らず、知る人ぞ知るお宝となっていたのだろうが、今ではおそらく何百万というファイルが日本中のハードディスクの中に眠っているわけで・・・。

第7位 谷佳知・田村亮子結婚

今日一日だけでもいいから復活してくれないだろうか、ナンシー関・・・これ以上にこのニュースを的確に表現する言葉をwebmasterは知らない。

第6位 広末涼子、早稲田大学を自主退学後に電撃妊娠・結婚発表

世の毀誉褒貶が激しい広末であるが、若手女優としては高く評価できる。 早稲田大学入学時に吉永小百合とよく比較されたが、スキャンダルにまみれたことで役柄の幅が広がり、そしておそらくは本人の人格に深みが加わったのは、結果的によかったのではないか(本人にとって幸せだったかどうかは別問題だが)。 第三者としてさらに勝手なことを言えば、離婚でもしてさらに人生経験を積めば、演技の密度がさらに濃くなるのではなどと不謹慎なことを期待させる存在である。

第5位 レニ・リーフェンシュタール死去

「意志の勝利」「オリンピア」などで知られる、まさに歴史の生き証人であった映画監督の死去であるが、そもそも今年まで生きていた(しかも100歳を超えて立派に現役で活動中だった)ことが驚き。 ナチスのプロバガンダに協力したとの理由で長らく表舞台に立てなかった彼女、戦後の空白を惜しむ声も多かったが、確かに同様の嫌疑を受けたフルトヴェングラーは戦後復権し、伝説的な戦後初のバイロイトでの「第九」などの記録に残したことを考えると、何がその命運を分けたのかは興味深い。 しかし若かりし頃の彼女、すごい目をした恐ろしいほどの美人。 月並みな言葉ではあるが、才色兼備というのは世にいるもので。

第4位 タイガース18年ぶりにセリーグ優勝

大阪がタイガースで盛り上がるというのは、本当に好きだからではなくお約束としてではないかと思わせた今年の騒動。 毎年強いようでは、あっけなく陳腐化して騒がれなくなるのではないか。 ま、今年は日本シリーズで勝てなかったので、来年はまだ盛り上がる余地が残っているのだろうが。

第3位 貴乃花・武蔵丸両横綱が相次いで引退

「若貴」という言葉で代表された大相撲の全盛期を知る両名の引退で、角界が一つの時代の終わりを迎えた。 カリスマ的人気の個人に頼るという方法でない形で復活を図るのであれば、タニマチに依存することなく興行収入、それも枡席の旦那ではなく一般のチケット販売によるそれで自立できなければならないのは明らかだが、実現できるかと言えば難しいだろう。 個人に頼るのであれば、やはり総合格闘技に出場させて相撲最強神話を証明するのが早道だと思うのだが。

第2位 少年犯罪を巡り論争激化

長崎での幼児殺害や渋谷・赤坂での小学生監禁事件を契機に、少年法の是非などについての議論が盛り上がった。 横浜の深夜外出に関する条例騒動もその延長線上にあったと言えよう。 しかし実際、少年犯罪なんてものは昔からよくある話であり、そのうちまた同じような事件が起きれば同じような議論が蒸し返されることは間違いあるまい。

第1位 ラグビーワールドカップでイングランドが北半球諸国で初優勝

当サイトで執拗にフォローしていたが、やはり今年のワールドカップはラグビー史に残る大会だったのではないか。 決勝が名勝負であったということもあるが、イングランドに代表されるディフェンスの高度化とキック戦術の浸透は、今後のルール改正にもつながり得る、今現在のルール下でのラグビーの結晶であったとも言えるだろう。 しかし、日本では早慶明の大学ラグビーが国立競技場を満員にするといっても、しょせんは大規模なコンパのようなもので、決してラグビー自体が人気を博しているというわけではないことがよくわかった本大会の取扱いであった。

(2003-12-24記)

2003-12-30「2003年『政治・経済面的』10大ニュース」

第10位 中国で胡錦濤体制が発足

有人宇宙船の打ち上げにデフレ脱却と景気のいいニュースがよく聞こえてくる中国だが、西安の日本人留学生ブラジャー事件や珠海での日本人集団売春騒動は、そこでの日本人の行動にも非がないわけではないが、それ以上に好調をもって知られる中国経済のゆがみ、すなわち上海などの先進地域と内陸の後進地域との格差が決して平穏無事に保たれているわけではなく、それなりの緊張感ある関係であることをうかがわせた。 建前としての地方住民の都市部への移動禁止と、本音としての地方出身者からなる闇労働市場による低廉な労働者の大量供給という二重構造が中国経済発展の秘訣であるだけに、この問題の扱いに新政権の手腕が問われることとなろう。

第9位 民主党・自由党合併

世の中の小沢幻想はまだまだ強いと感じさせられたイベント。 しかし、小沢は民主党では彼にしかできないと考えられることの中で、もっとも強力な手段にはまだ手を出していない。 それは、公明党の連立与党からの引き剥がし。 もう既に公明党(と創価学会)とのコネは自民党に完全にのっとられやりたくてもできないのか、それとも温存しているだけなのか。 今年の総選挙で、自民党は公明党がいなくても過半数がとれるだけの衆院の議席は確保したが、参院は来年の選挙で勝ったとしても公明党なくしては過半数はまず確保できないので、もし公明党を引き抜くことができれば、来年の参議院選挙は自民党を政権から追い出す最大のチャンスだ。 正直webmasterは彼を見切っているのだが、それができたなら、自らの不明を認め小沢の実力は未だたいしたものだと評価を改めることとしよう。

第8位 統一地方選での石原都知事再選など、「右・無党派」知事強し

民主党が今ひとつ勢いに乗れない原因の一つに、この保守化した風潮があげられよう。 どう説明しようと、松沢、上田、中田ら民主党若手保守派人脈が党から逃げ出しているように見る向きがいるのも仕方あるまい。 ちなみに日本憲政史上、「右・無党派」で一番人気のあった政治家は近衛文麿だと思うのだが、いかがだろう?

第7位 スペースシャトル・コロンビア爆発

機体が粉々に砕け散っていく衝撃的な映像が世界中の注目を集めたが、何より国際宇宙ステーション計画をはじめ、多くの宇宙関連プロジェクトが延期を強いられていることが大きい。 代替手段がソユーズしかないと聞くと、いろいろ注文はあれど、あらゆる分野において世界のトップクラスを維持するアメリカのポテンシャルを評価せざるを得まい。

第6位 衆議院解散総選挙、与党堅調・民主善戦・社民後退

結果自体は順当でありある意味つまらない選挙であったが、選挙での社民党の敗北を受けての土井たか子の引退はやはり感慨深いものがある。 自民党の中曽根康弘、宮沢喜一両総理経験者に野中広務といった実力者の選挙不出馬(事情はそれぞれだが)もまた同様。 こうして引退した人間が話題になること自体、選挙そのものがたいしたものではなかった証拠といえよう。 ちなみに、今回の選挙を見る限り自民と民主のいずれに勢いがあるかはそれほど大きな差があるわけではなく、来年の参院選で流れができるのかどうかが見もの。 「第9位」で書いた、公明党を引き抜くことができるかどうかと並んで、来年の政局のキーポイントの一つとなろう。

第5位 小泉改革は一定の進捗

日本郵政公社が発足し、構造改革特区も着実に認められ、道路公団についても形態はどうであれ、総裁を馘にしてまでとにかく民営化路線を進めたわけで、40%程度あるとされる小泉総理の支持基盤はそうした点をきちんと見ているということだろう。 少しでも妥協すると理念が穢れたかのごとく騒ぐ改革原理主義者もいるが、実際のところある程度社会人としての経験を積んでいれば、そこまでナイーブな意見には疑問を持つのが普通だ(ポジショントークだというならまだありだが)。 それだけの支持率が今の日本にとって幸せかどうかについては大いに疑いの余地があるが。

第4位 自民党総裁選、小泉総裁再選

・・・というわけで、無難に小泉総裁が再選された。 民主党の政策より亀井・藤井・高村の政策の方がよほど非小泉的であり、日本にとっては衆院選よりよほど大きな選択だったというのがそれぞれの順位をこうした理由である。 今年の3月前後であれば勝敗はもっと接近していたと思われるが、それでも小泉の勝利は動かなかったであろうし、まして景況感がずいぶんとよくなっていた実際の総裁選日程ではなおさら。 やはり今年の日本政治は、小泉の政局と運の強さを抜きにしては語れないといえよう。

第3位 日銀総裁交代、新総裁は「元プリンス」福井氏に

やっていることは前任者と大差ない(量的緩和に対してネガティブコミットメントをしないだけまし、という程度)にもかかわらず、ここまで世の風向きを変えて日銀応援団を増やす手腕は注目に値する。 ちなみに日銀のいかがわしさがよくわかる例を挙げると、あれだけマネタリーにとどまらずプルーデンスにも口を出しておきながら、その点で全く自らの手を汚さないところだ。 日銀法上、当局認可さえ得られれば銀行株の取得だってできるのだから、それほど銀行経営を改革したいのであれば、銀行の大株主になって自分で取り組めばよい。 株価が落ちたら日銀のBSが毀損するとでも反論するのだろうが、本当に銀行経営の改革が日本経済の回復に必須ならそのぐらいのコストは惜しむべきではないし(自分の任務でないとかいうなら、余計な口出しをするなということだ)、だいたい日銀の頭のいい方々が経営に取り組めば、当然市場から評価されて株価は上がるんじゃないんですか(笑)。

第2位 デフレ継続

・・・というわけで、小泉・福井路線であれば必然的ではあるが、日本のデフレ環境は改善の見込みがない。 CPIの上昇が特殊要因だとは日銀自身が認めていることであるし、GDPデフレータは相変わらず低位安定。 夏ごろの株価については竹中大臣も鼻高々だったが、構造改革の成果というのであれば、たったの半年ももたずに上昇局面がおわりボックス相場になっていることをどう正当化するのだろうか(笑)。 しかし次の景気後退局面では日本経済はどうなってしまうのか、非常に不安である。 今年のような景気回復局面ですら、りそな銀行の経営危機や足利銀行の破綻があったのだから。

第1位 イラク・キャンペーン

年内にフセインが逮捕され、どうにか収まりのついた形にはなってきているが、イラクの統治機構の再建にとどまらず、今後の世界的な安全保障体制のあり方や国連の役割を含め、イラク問題により提示された諸問題がどうなるのかはいまだ帰趨が明らかでない。 日本にとってもイラク問題は、自衛隊が交戦可能な兵器とともに海を渡るという一つの戦後史の区切りをもたらした。 既に先発隊はイラクに到着し、来年には本体が現地で活動を開始することとなる。 一人の死者も出さずに全員無事に帰ってくる可能性はそれほど高くないだろうが、この予想が外れますように・・・。

(2003-12-30記)

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